たたかいの日々

立石 正面
側面
背面

資料名朱彩石柱
見つかった遺跡函館市浜町 戸井貝塚
大きさ長さ25㌢×幅8.9㌢×高さ7.6㌢
時期縄文時代 前期中葉 今から約5000年前

函館市指定文化財 市立函館博物館蔵

たたかいの日々

 遺跡の調査には石がつきものです。この石をどう扱うかが難しい。縄文のものかも知れないし、本物の石ころかも知れない。現場で石が見つかると作業員さんはすぐに取り上げるか捨てたがる方が多い。なぜか・・それは彼女らの仕事の邪魔になるからです。彼女らの美的センスで、発掘現場は隅々までキレイに調えられます。これが彼女たちの使命感。「先生、捨てても良いかい?」ハナから()ける気は満々。でも祈るような気持ちでその場に留め置いて頂きます。「点」ではなく、「面」で観察するためです。片付け好きの彼女たちは、虎視眈々とそのきっかけを狙います。これはある意味「(いくさ)」なのです。(せん)の会話が幾十回繰り返されて、ストーンサークルや配石遺構が見つかったりすると、なぜだか少しだけホッとしたりします。

 今日の石柱は、筆者が気付きました。ジョレン※で土を削り、当時の地面を出す作業、薄く削っていると「コツン」と刃先に当たるものがありました。発掘に必要なもの、それは我慢です。我慢して我慢して削ります。2・3セ㌢出てくると目印の「旗」を立てます。※2作業員さんは「クシ」と呼んでますが。意味は「動かしちゃダメ」。やがて「石の柱」が登場しました。上から見ると正三角形、三角柱の礫です。加工痕はわかりませんが真っ赤な線が同じ幅で3本、石を巡っています。5千年ぶりの鮮やかな赤。ベンガラではなさそうです。周囲の土を削ると、立石を埋めるために掘った穴の縁にたどり着きました。心の中でガッツポーズです。「立石だよね」と調査担当の古屋敷さん。「立石ですね」筆者がうなずきます。「何の?」「わかりません」「どうする?」「朱が抜けないうちに記録をとって取上げませんか」「そうすっか」。朱は地表にあらわになると劣化が早く、速やかに取上げる必要もありました。

 立石は後期初頭の石倉貝塚で、境界の目印や、日の出の方角、中心からの出入り口を示した例がありました。時代は違いますが、立石の目的は「(しるべ)」、目印でしょう。戸井と同時期の集落、川汲町ハマナス野遺跡からも竪穴の覆土に廃棄された状態で、朱線の引かれた三角柱の石柱が発見されています。調査者は「呪術行為の可能性」に言及しています。八雲町野田生1遺跡では、威信財の石棒が倒れ掛かった状態で発見されました。調査者は境界を示すために立てられた立石ではないかと報告しています。縄文人は外に向かって何かを示す人たちなのです。

 ハマナス野遺跡と戸井貝塚、ともに同じような朱を引いた三角柱の立石が使われました。目的も使われた時期も同じでしょう。遺跡は共に前期の大集落でしたが戸井貝塚はこの後にムラが一旦途絶え、住人は川向かいの浜町A遺跡に移ったとみられます。どんな恐怖があったのでしょう。病に襲われ一家が全滅したか、津波が来襲したか。立石が立てられたままムラは一度放棄されたようです。

 立石に使われた朱の意味は何でしょう。一般に朱、特に水銀朱の代表的な使用例は遺体に()く行為。防腐と保存が目的です。当時はしばらくの間、お墓が開いていて、お別れも出来たのでしょうね。立石に朱線は「この村で朱を撒くことがありました」とか「お別れをしています」、あるいは死者の肉体を腐らせて持ち去ろうとしている何かを拒む「ギシキ」つまり、大掛かりな埋葬行為があった時に示されるものではないかと推測しました。しかし、そんな痕跡は調査区からは見つかっていません。見当違いか、それとも発掘していないこの先にあるのか、答えは全て土の中にあります。ハマナス野遺跡では使用後に石は廃棄されました。つまり半永久的なシルシではなく、使い終えると廃棄の対象であったことがわかります。戸井貝塚はムラが移ったために残されていました。それを見つけた私たちにとっては幸運だったのですが。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

注釈
※土を薄く削り取る発掘の道具。鋤簾。
※2焼き鳥用の(函館では豚串)竹串に布テープを貼り番号が書かれた旗のようなもの。

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