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| 資料名 | 装飾品または特殊骨器 |
| 見つかった遺跡 | 函館市浜町 戸井貝塚 |
| 大きさ | 長さ 97.2㌢ 長さ 64.2㌢ |
| 時期 | 縄文時代中期末葉から後期初頭(今から約4,000年前) |
市立箱館博物館蔵 函館市指定有形文化財
リーダーの資格とは
オットセイは北海道に渡ってからですが、貝塚調査に来ていたさまざまな大学の院生たちから資料を分けてもらい、生態や骨格を学びました。戸井貝塚に関係する北オットセイは、現在脂肪や毛皮目当てに乱獲され、絶滅危惧種に指定されています。日本では身体の一部が薬の材料として松前藩から幕府へ献上品となったりして、その道ではよく知られた存在なのですが、食料としてはすでになじみがなくなってしまいました。
縄文時代の戸井貝塚では、オットセイはエゾシカとともに、この村の哺乳類の主体を占める食材でした。貝層を調査した西本豊弘教授の分析によれば、貝層が形成された25年ほどの間に、メスの成獣を79個体・若獣11個体、幼獣4個体、オスは成獣13個体、若獣27個体、幼獣10個体を捕獲しています。戸井の縄文人は、戸井沖に回遊してくるメスの成獣を主体とした群れを捕獲していました。オットセイは主にイカ、スケトウダラやサンマを捕食します。戸井沖にはこれらの魚が豊富に集まる潮目(境)があらわれ、縄文人はそこで越冬する群れを捕獲していたか、秋と春に戸井の沖を通過する群れを狙って捕獲していたと考えられます。また母親の身体の中にいるはずの胎児の骨が発見されていることから推測すると、子を孕んでいる春先のオットセイを捕獲していたとの指摘もありました。
先に挙げた捕獲数は戸井貝塚の調査区に残されたものを識別・分類し、骨の部位を基に個体数を数えた確実に実証できる個体数です。同じ海獣のアシカとトドを入れると200頭を超えます。ですが、過去の発掘で持ち去られた骨や周囲の貝層のものは含まれていません。実際には、もっとたくさんの骨が含まれているはず。調査区の結果を貝塚全体に広げると、単独の村で可能な漁の規模を遙かに超える頭数を戸井の縄文人たちは捕獲していたといい得るのです。
複数の村により漁は協力して行われ、遺跡からは解体されたオットセイの骨がバラバラになって発見されて、層を成すほど堆積している箇所もありました。獲物は解体され、分配されて利用されます。オットセイは直接的には食料でしたが、間接的には村同士の共同作業にかかわる地域社会をつなぐ存在でもありました。
ご紹介するのは「陰茎骨」を加工した装飾品です。おチンチンの骨ですね。人類にはありません。ですから、彼らにとっても、私たちにとっても、とても貴重なものなのです。資料は2点。先端あるいは付け根に穴を開けています。これはネックレスやペンダントトップなどにして身につけるためのものです。素材は根元から先端に向かい、ゆるく弧を描いています。太さのあるつけ根を中心に、四面を作り出し、そのうち一面は先端まで面取りがされ、その表面には彼らの好む2本1組の刻み目がはいっています。この刻み目の間隔が彼らの長さの基準となる単位だったと見ています。つまり定規ですね。短い単位と長い単位の2種類。この地でとれる最も貴重な素材に刻まれています。
縄文人は自然にも獲物にも詳しい。それは命に直結しているから。身につけたその定規は女性へのアピールにもなります。「舟を操って、オットセイを狩ることができる。上手に解体して、美味しい肉を家族に食べさせて上げられる。細工も上手い!君と子どもたちにはオットセイの毛皮の服を着せて寒い思いはさせないよ!」このアクセサリーは口先だけじゃない実力の証。一人前の狩人、家族や一族を率いるリーダーとしての証明になったことでしょう。ステイタスなのです。いろんな意味で。
日本考古学協会会員 佐藤智雄
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