変わらぬものへの憧れ

岩偶正面
資料名岩 偶
見つかった遺跡函館市浜町 戸井貝塚
大きさ高さ15.4㌢×幅8.0㌢×厚さ1.3㌢
時期縄文時代前期 今から約4~5,000年前

市立函館博物館蔵

変わらぬものへの憧れ

 スッと立った首、なだらかに腕まで下りる肩、脚に向かってほどよくしまる身体。まるで19世紀末から20世紀にかけて流行したアバンギャルドかキュビズムの絵画のような人体の表現です。三角はヒトのカラダを象徴する形。最近は見かけなくなりましたが、昭和の洋裁店には「人の身体はこの形」そういわんばかりの仮縫用のマネキンがありました。この岩偶もマネキン同様、あざやかなスッとした線で構成された力強い形をしています。 

 これは縄文前期の岩偶です。やや大型の部類に入るでしょう。ちなみに、これまで日本で見つかった一番大きな岩偶は、福島町の館崎遺跡から発見されたもので、頭部は欠けていますが、残っている胴だけでも37.1㌢ありました。

 岩偶を手のひらにのせると少しひんやりして、ピタリと吸い付くような感じがあります。頭のてっぺんから脚の先まで、石の厚さはほぼ均質です。大きさのわりに厚みがなく、全体が板状で、前期から中期の土偶のようです。石質は緻密で、柔らかな凝灰岩質。厚みがないのは平面の加工を容易にするためでしょう。腹面と背面、岩偶を動かしてついた大きな擦り傷と砥石を動かしてつけられた小さな擦痕が残されています。右肩口の白っぽい擦り傷は新しく調査の時についてしまったものでしょう。整形の最後は、身体の側面をまるで石鋸のように研ぎだして、縄文人はこの彫刻のようなカラダを完成させました。表面についた炭化物は、火をともなう行為の結果と考えられます。

 縄文人は土を手に取り土器を作りました。そして自由な発想と想像力が「土偶」を作り出します。さらに彼らは石を打ち欠いたり磨いたりして「岩偶」を生み出します。果たしてモデルは存在したのでしょうか。14,500年前(草創期)愛媛県の上黒岩岩陰遺跡では円礫に刻線で描かれた岩偶が発見され、最古のものとされています。石を材料にしたヒトガタは、石という表現がしにくい素材の特長によって、独特の表現がされることになります。岩偶の形を一言であらわすなら「奇怪(きっかい)」でしょう。作りにくいからこそわかりやすく、石の(でく)としてのカタチがはっきりしてきます。岩偶の長所は素材の硬さから来る「シンプル」な形と石の持つ「不変性」という特性なのだと考えられます。

 津軽海峡の北岸域は土偶が少ない地域です。この地域でヒトガタの歴史をたどろうとすると、土偶のない時期に登場してくる岩偶の存在に必ずあたります。臼尻遺跡や大船遺跡からはさらに遅い中期にも岩偶が複数出土し土偶は簡素なものしか出てこないのは、海峡沿岸から太平洋側にかけての地域的な傾向とも考えることもできます。

 土偶と岩偶は単に素材の違いに起因するものなのか、それとも根本的に用途や目的が異なる存在だったのか。海峡の北岸では、土偶が少ない分、岩偶が登場しないとヒトガタの歴史は連続しません。後期になって突然国宝土偶のような華美な土偶が出てくるようになると岩偶は姿を潜めてしまい、晩期の亀ヶ岡文化とともに石を素材とした岩偶や岩版がわずかですが再び姿を現し、この明暗が私たちを惑わします。

 時代は少し異なるのですが、古事記にはオオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの説話があります。二人のヒメを例えれば、土偶は華やかなコノハナサクヤ、イワナガヒメはさしずめ岩偶でしょう。コノハナサクヤは、(はかな)きもの、美しいがいずれ滅びゆくものと、イワナガヒメは盤石で永久に変わらぬものの象徴です。日本人はこの二つに憧れ、ともに信仰の対象としてきました。遺跡から発見される土偶と岩偶を見比べていると、この話が思い起こされます。岩偶からは縄文人があこがれた、自然に象徴される変わらぬ姿への憧れを感じます。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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