
| 資料名 | 岩偶 |
| 見つかった遺跡 | 函館市中野町 函館空港 4遺跡 |
| 大きさ | 高さ11.5㌢×幅7.4㌢×厚さ3.1㌢ |
| 時期 | 縄文時代 前期中葉 今から約6,500年前 |
市立函館博物館蔵
石に向き合う人のココロ
日本列島的に見れば、土偶は今から13,000年前の縄文草創期、三重県松阪市の「粥見井尻遺跡」で発見されたものが最も古く、岩偶はさらに古い14,500年前の愛媛県の上黒岩岩陰遺跡が最古のものといわれています。土で作られた土偶や石で作られた岩偶は、列島のそれぞれの地域で形を変えながら、1万年以上作り続けられたことになります。後の世の人が「偶」と呼び、この字を当てたのは、このカタチがヒトとしての根源的な要素を持っていたからなのでしょう。
何かの目的で作られ始めたこの形は、初め頭が無く、顔もなく、手も足もなかった。肝心なことは「三角」モチーフであること。人体を象徴する三角形をしていました。「さなぎ」でしょうか「繭」でしょうか、まるで「ヒトのタマゴ」です。やがて、それに乳が付き、尻が付き、頭・手・顔・脚がつくのですが、その順番は列島の地域によって違っています。ヒトとして必要なパーツや条件は、その地域の成熟度合いによって異なるからでしょう。
この岩偶が現れるようになる縄文時代前期初頭頃、東北地方の北部では大きな出来事がありました。それは、岩手山や十和田火山の噴火です。十和田の噴火は本州北半の広い範囲にダメージを与えたことでしょう。この時代の遺跡を調査すると、中掫とよばれる火山噴出物(アワズナ)が広範囲で認められます。他にも津波や嵐など、過ぎ去ることを乞い願うしかない脅威には、より多くの人の共感を求めて特別な姿が現されます。それが岩偶として形になったのではないかと筆者は思っています。海峡の北岸域では前期から中期にかけて、土偶の数が少なくなり、それに代わるように岩偶が発見される傾向が見られます。南茅部地域では、臼尻B遺跡や大船遺跡などで中期まで三角や十字モチーフの岩偶が積極的に作られます。土偶には土偶の、岩偶には岩偶に願う対象があるのだとすれば、それには北海道駒ヶ岳の活動が関係しているのではないかと思っています。
遺跡は函館空港の東側、海峡に面した標高40~50㍍の海岸段丘上にある縄文前期の大集落です。滑走路建設の際に発掘調査が実施され、55棟の竪穴住居と多くの土坑が発見されました。
岩偶は大型で、頭部から襟首と肩にかけての右半分が欠きとられています。祀られたあとに破却されたのでしょう。完形品であれば、およそ高さ34㌢、幅も17㌢ぐらいにはなりそうです。全体は砂質泥岩製の柔らかい石で、表面を削り整形して仕上げています。体に残された削り痕から相当な手間が見て取れます。襟と腕が浮き彫りになり、表面は小さく丸い54個の「円点」で模様付けをしています。円点は石のドリルで開けられ、先端が細く、回転させた痕跡が底に見られます。腕は小さく身体の側面から胸の正面に向かってつけられ、裏面には整形痕のほかに腕をデッサンしたような三角形の刻線が見られます。この遺跡からは、もう1点同じ時期の岩偶が発見されているのですが、大きさが格段に違い、加工方法も精緻です。海峡の北岸域では他に例がないことから海峡南岸からの搬入品か、移住者がギフトとして持ち込んだものとも見られます。
土偶の出土量が多くない津軽海峡北岸域でヒトガタの歴史をたどろうとすると、どうしても岩偶との併存問題にあたります。ともにヒトガタならば土偶と岩偶の違いは何か。その根源には、「原始神道」とも言うべきものや「日本人の根源に流れる恐れや畏敬のありかた」を見ることができるような気がします。作りにくいからこそわかりやすく、形も単純に。日本人にとって石は変わらないもの「不変」の象徴でした。
土くれの塊に息を吹き込んで命を与えたのが西洋の神の御業なら、日本には木にも、石にも魂があります。まっすぐ立って、両腕を胸の前で組んだ岩偶の姿は、筆者には何かに祈りをささげるヒトそのものに見えてきます。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
函館の縄文を旅する物語

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