
| 資料名 | 土偶 |
| 見つかった遺跡 | 函館市中野町・石倉町 石倉貝塚 |
| 大きさ | 長さ9.8㌢×幅9.4㌢×胴部幅2.4㌢ |
| 時期 | 縄文時代 後期初頭 今から約4,000年前 |
函館市教育委員会 文化財課蔵
縄文コレクションin Hakodate
函館の縄文を旅する物語 今週は石倉貝塚で見つかった土偶をご紹介致します。
土偶を見ると、まず顔や姿・形に目が行ってしまいます。次に目に留まるのは、土偶の表面にある乳房やお腹の正中線の表現で、さらに観察をすすめると、ほかに描かれている細かな表現にも気付きます。顔に付けられた文様は刺青と言う人もあり、仮面や化粧、時代の表現の約束と指摘される方もいらっしゃいます。あるいは「身体につけられた表現は土器と同じ飾りや文様で、時代を表す以外に意味はない」というシンプルな意見も聞かれたりするのですが、実にその多くには当時の着衣や身に着けた装飾品をあらわしているものがあって、当時の縄文人を知る手がかりを教えてくれます。
今日ご紹介する石倉貝塚の土偶は、ほぼ完全な形で見つかりました。壊されなかったその理由は、お墓への追葬を目的に作られたものだったのであろうと考えられます。
土偶が発見された石倉貝塚は縄文時代後期初頭の集団墓地でした。遺跡があった場所は函館空港滑走路の東端で、津軽海峡に面した周囲が開けた段丘の上でした。この遺跡は、1基の古いお墓を中心に、その外側には100を越えるお墓が組み石をもって巡り、ストーンサークルを形成しています。土偶は古いお墓の南側にから発見されました。おそらくは土饅頭の上にあったものでしょう。
土偶を観察して見ましょう。土偶は板状で、正面は逆三角形の身体に、天を仰ぐように頭部がつけられています。まるで空を飛ぶモモンガやムササビのような不思議な姿です。土偶の正面には胸の膨らみが一箇所とその剥落痕が一箇所残っています。胴の下の中央にも丸い突起が一つ見えています。さらに、この土偶の一番大きな特徴として、表面につけられた細かな文様をあげることができます。この文様は同じ時期の土器にはみられない独特の文様です。文様の外側、両肩から腕、そして胸までと背中にかけてはきれいに磨かれ、ツルツルしているのですが、それ以外の部分は縦長の格子目に覆われています。区画を見ると横に2段、縦方向は右半身3枚、左半身3枚、合計6枚の格子が鎖状の文様で継ぎ合わされているのが見えます。
「この土偶は服を着ている」と最初に気が付いたのはこの格子目と磨かれた無文の部分の境目につけられたタテの刻み目でした。刻み目は磨かれた部分と格子目をしっかりつなぎ、あたかも両方をかがっている様に見えました。これは「違う素材を縫い合わせた痕」と考えたときに縄文人の衣服が見えてきました。
磨かれた部分は肩と腕そして背中です。これは荷物や切り倒した木、獲物を担いで運ぶなど、労働をする際に最も力のかかる部分です。この時代、編まれていない衣類の素材の代表は皮、獣皮や魚皮しかありません。力のかかる部分に使う素材として動物の皮は最も妥当な素材でしょう。胴のほとんどを覆っている格子の部分は編まれていることからアンギンなどの編まれた布で覆われていると考えられます。胴部のほかには、首周りや頭部に同様の表現が見られます。これは、頭からすっぽりと被るフード付きの上着であると考えることができました。背中は一面、つやつやの皮で覆われています。風を通さない丈夫で暖かな上着だったでしょうね。発掘当時、石倉貝塚の発掘検討委員の西本豊弘教授が上野の国立科学博物館を会場に開かれた「水辺の森と縄文人」と題した特別展示で、この土偶の衣装をイラストで再現してくれました。石倉君は縄文時代の衣装を再現できた希少な例となっています。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
函館の縄文を旅する物語

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