
| 資料名 | 指痕付土器 |
| 見つかった遺跡 | 函館市谷地頭 |
| 大きさ | 13.3㌢×11.4㌢×0.7㌢ |
| 時期 | 縄文時代 晩期か 今から約2~2.500年前 |
市立函館博物館蔵
縄文人のおやくそく
本日ご紹介するのは底の部分です。「どこ?何のソコ?」と聞かれると答えがたいのです。平面は円形なので土器の底だったかと思うのですが、「土器にはならなかった」のかな、と考えた訳です。この資料は今から115年前の明治41年(1908)に谷地頭で発見されました。残されたカケラの端が、わずかに上に向かって緩やかに立ち上がっています。それなので、元は「土器の底」かと推測しました。平らな部分は厚さ1.7㍉と薄く、低い温度ですが焼かれてもいます。これほど薄く焼かれる器は、縄文時代晩期の土器や製品の特徴と考えられます。加えて、平らな部分が広いことから、皿形か蓋とも推測しました。
なぜこんなカケラを取り上げるのか。ネタが尽きたわけではありません。実はこの破片、内側の平らな部分に4つの窪みが残されています。1つなら土器を作る時に回転を容易にするために底に使った石の跡と考えるのですが、4つとなると話は少し違って参ります。窪みの場所は丸いカケラの中心を囲むようにポツ、ポツ、ポツ、ポツと。一つ一つの形は、マルと言うより一辺が平らな隅丸です。周囲には盛りあがった跡がないことから、静かに押し込んだものでしょう。先端が深くグッと押しつけたようなものもあります。これは、指の「あと」ですね。形が全部違っています。筆者も実際に指先をおいてみました。ぴったりとはまります。土器の乾燥と焼きしまりを考えると、大人のものでしょう。しかも一人が一度に押すには角度に無理があり、複数人で押したものとみられます。縄文人が、自身の形を残した例は、豊原4遺跡、史跡垣ノ島遺跡の「手形・足形付土版」や木古内町蛇内2遺跡の「歯形付き土製品」などがよく知られています。いたずらとも思えるこんな指の痕がついた資料ですが、他に例がありません。彼らは何故、この痕跡を遺したのでしょう。これは焼き上げる前の粘土に押された「シルシ」なのだと考えられます。
改めて窪みのあとに指をあわせてみると、それぞれがそっと、そして深く押し付けています。指先は爪のある方が若干平らで、腹の部分が丸くなっています。爪先と見られる跡もみられます。柔らかいものの上からつけた四箇所の指のスタンプ。一人以上のヒトが一つのものに「同じシルシをつける」行為です。思いつくのは中近世の連判状に並ぶ指の印。命がけのものには血判が押してありました。この共同作業は何かの承諾行為ととることができるのではないでしょうか。現代では書面や電子書類で行っている共通認識の確認が形として残された例ではないかと考えられるのです。
函館山は海峡に浮いたランドマークです。遠くは対岸の大間や佐井からも容易に目標とすることが可能です。早期の住吉町遺跡は、同じ時期に成立していた髙松丘陵にある中野A遺跡、B遺跡とは対岸にあたり、どちらかが舟を出したり、煙が上がっていれば気がつく距離です。中期から後期にかけてムラが営まれた天祐寺貝塚やアサリ貝塚は、やはり同じ時期に対岸の河岸段丘に成立する湯川貝塚や日吉町遺跡と向き合うように作られています。この土器片を出した晩期の遺跡は、現在の青柳中学校周辺にあったと思われるのですが、残念ながら、市民運動場や中学校を作るための造成で壊滅したらしく、晩期の遺物だけがこの地域に残されました。縄文を含む墓地跡の発見が当時の新聞記事に残されています。函館山はご紹介した高松や日吉丘陵の遺跡だけでなく、対岸の晩期集落があった陣川やサイベ沢遺跡からも見え、そして函館山周辺はこれらのムラに必要とされる生業の場であったと考えられます。
この指痕土器は博物館で大切に保管されています。対岸の縄文人達と漁場を共有したり、共同で漁をしたり、交易品を交換するために交した約束の印でしょうか。カケラではありますが、じっくり観察すれば函館山の縄文人と向き合うことも出来るのです。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
函館の縄文を旅する物語

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