資料名 | 石棒 |
見つかった遺跡 | 北斗市 矢不来茂辺地 遺跡 |
大きさ | 長さ15.8㌢ |
時期 | 縄文時代 後期あるいは晩期 今から約3~2,500年前 |
市立函館博物館蔵
縄文人も肩がこる
石棒です。石棒といえば、世界遺産キウス周堤墓群のお墓の中に副葬されていた長さ50㌢を超える長大なものとか、柄頭の先端に精緻な彫り込みがあるとか、そんな華麗なものを想像してしまいます。が、そんな大げさなものではありません。幅より長さのある石の加工品だから「石棒」。見た目は「カリン糖」か「うまい棒」のよう。一端が太く、反対がやや細い泥岩の自然礫を利用しています。自然礫ですから、背(裏にあたります)は平らで腹側はふくらみます。腹側の両端はぷくっとしたふくらみがあり、端っこを二本線で区画してその中に3重の同心円が刻まれています。太い方には大きめの、細い方には小さめの同心円がグルグルグルと刻まれます。文様が刻まれた順番は、同心円が先でそのあとに区画線が刻まれています。背面の細い方にもかなり擦れた状態の区画線と同心円が残っています。こちらが先で、追加の加工があったのでしょうね。かなりパーソナルな香りがします。
この正体は、試しにご自身の親指を立てて見比べてみてください。そう指!縄文人の作った親指です。横から見ると指を握り締めてそっくり返して立てる「good!」ポーズそのものですね。
この石棒が出土した茂辺地遺跡は北斗市矢不来77-2他にある津軽海峡と茂辺地川に面したスケールの大きな遺跡です。北海道を代表する縄文遺跡の一つで、縄文早期から・前・中・後・晩期・続縄文時代の人が暮らした痕跡が残っています。この遺跡から出土したもっとも有名な資料は、新函館北斗駅にも展示してある縄文後期の重要文化財「人形装飾付き異形注口土器」です。また、この遺跡から出土した晩期の資料は、「落合コレクション」※という名前で国の重要文化財となり、現在国立歴史民俗博物館に収蔵されています。すごいですね。遺跡をご存じない方でも、毎年秋になると茂辺地川に産卵のため遡上する鮭の話題を耳にした方は多いのではないでしょうか。縄文の遺跡は、鮭の遡上する川と密接な関係にあります。毎年、必ず遡上する鮭。高台のこの場所に遺跡が作られた目的は、鮭の遡上を見張るためといっても差し支えはないでしょう。
茂辺地遺跡は縄文遺物が見つかる遺跡として古くから知られていました。函館博物館の資料にも、この遺跡の資料が収蔵されています。
この石、角が取れて丸くなっています。丸くなるのは河川など水による風化です。川に来た縄文人はどうしてこの石を手に取ったんでしょうね。石を握っていた手をふと見て心に何か浮かんだのでしょうか。日本人にとって、石は心につながるマジカルな側面も持ち合わせています。遺跡には誰かが持ち込まないと存在しない石が沢山見つかります。
二本線による区画は指の関節のシワ、正しくは指節間皮線と見られます。三重の同心円は指の腹に刻まれた指紋の渦文。全体が磨り減っているので、相当使われたことは確かです。ただ気になることが1点、刻まれた刻線の中が黒いのです。背面の薄くなった刻線の中にも黒いものが途切れ途切れに残されています。分析をしていないのでなんとも申し上げようがございませんが、タール状のようにも見えます。
使用方法は病人に使った「神の指」なのか、東洋医学らしい「ツボ押し」かもしれません。捕まえた鮭をさばいて疲れた母親や祖母へのねぎらいに使われたのでしょうか。あるいは祖父母へのプレゼントや親しい人へのギフトだったのかもしれません。他の遺跡の類例はなく、しかも遺跡から出土したのは1点だけです。文様は磨り減っていても欠けた部分がないので丁寧に使われていたことがわかります。
記録や確証のない遺物ですが、石に刻まれた表現とこの石を選んだ感性、摩滅具合から想像される使用方法など2500年の時間が一気に吹き飛んでしまうような遺物です。
この「石棒」、今度の母の日の贈り物にいかがでしょうか。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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