縄文人の か・た・ち

重要文化財豊原4遺跡 足形付土版
写真提供:函館市教育委員会

資料名足形付土版
見つかった遺跡函館市 豊原4遺跡
大きさ長さ5.5㌢~10㌢
時期縄文時代早期末葉(7000年前)

函館市教育委員会蔵 国指定有形重要文化財

縄文人の か・た・ち

 現代の私たちが縄文人の姿や形を直接目にできるものの一つに手形、足形付土版があります。手の形や足の形が押されて残った土版は、東日本の縄文時代早期末と後期、そして晩期の20遺跡から51例が報告されています。土版には、子供や幼児の片足または両方の足形が残され、裏側には足に土版を押しつけた人の手の形が残っているものがあります。

 土版が発見された遺跡は、新潟、山形、秋田、岩手、青森と北海道で、早期に限って言えば、函館から出土したものが半数以上を占めます。このような分布の片寄りは、この習慣が函館を中心としたものであることを物語っているといってよいでしょう。

 では、足形付土版とは何でしょうか。早期の土版は、ほとんどのものが成人の墓から発見されます。言いかえれば、副葬品として埋納するために製作されたものということが出来ます。国の重要文化財となった豊原4遺跡の土坑出土品は、早期の墓から出土した足形付土版を中心としたひとまとまりの副葬品です。内容は、子供や幼児の足形がついた土版と、未使用の剥片石器、色違いの磨製石斧に小型の土器の70点で、当時の葬送儀礼等を知ることのできる貴重な例です。

 足形付土版が発見された豊原4遺跡は、汐泊 川左岸の段丘上にある縄文早期末から中期の集落跡です。報告によれば、約3000年の間営まれていたこのムラ(村)は、沢沿いに形成され、やがて時間と共に次第に高く広い場所に広がってゆきました。その中で、足形付土版が出土した早期のお墓は円形の土坑で、十基ほどがまとまりを持って発見されました。

 この遺跡は、津軽海峡の海の産物と汐泊川に遡上する鮭や川の恵まれた食料事情に加え、川を遡って上流に向かうと、川汲峠を挟んで太平洋側の南茅部地域に至る最も近い地理的な場所にあり、そこには足形付土版が大量に出土した史跡垣ノ島遺跡が同時代に営まれています。二つのムラは、漁場や交易、婚姻など習慣をともにするほどの人的交流があったと推測されます。

 話を土版に戻しましょう。足形の裏側には押し付けた手の形が残っているものがあります。手形は意外と小さく、女性のものと推察されます。お母さんやおばあちゃん。赤ちゃんを守る親たちの集団のものでしょう。

 この土版は何のために作られ、そしてなぜ墓に副葬されたのでしょうか。死んだ子どもの形見としてなのか、また母親などの死を弔うためでしょうか、それとも亡くなったひとの復活を願ってなど諸説あります。

 土板に写された形は、片足のもの、ごく小さな足形が二つ揃って残されているものなど様々な大きさと種類があります。土版を観察すると、足形がはみでているものはありません。土版の大きさには決まりが無く、足の大きさに合わせてオーダーメイドで作られているといってよいでしょう。足形は意外にも大きなものや小さなものがあることから、形を採られた対象の年齢や身体の大きさはあまり関係がなく、いわゆる通過儀礼との関係は薄そうです。ということは、本人のための儀式以外で必要になった際に作られるものといえそうです。

 豊原4遺跡から発見された足形付土板は日本最大です。10歳前後の少年のものといわれています。亡くなったヒトが子供の形を連れてゆく理由は何でしょう。考えられるのは復活の願いをこめた埋葬です。縄文人の思想は伝えられていませんが、例として彼らがオットセイやクマなどの獲物に復活の儀式を行っていることは知られています。この世に再生し、自分たちのところに再び肉を届けてくれるよう祈りを捧げるのが復活の儀式です。

 リーダーや構成員が亡くなった後に生まれた子の顔を見て「この子は亡くなったおじいさんにそっくりだ」。とか「あの人(あの子)の生まれ変わり」。縄文時代は人が少ない分だけ身内や構成員の死はもっと切実でしょう。

 もう一つ、土版と同時にお墓に入れられたものに目を向けてみましょう。「未使用の石器」と「形の揃った色違いの石斧」です。色違いの石斧は蛇紋岩製でこの地では手に入らない交易品です。大きさも通常どおりで、「石器も石斧もこの世で使用するもの」であり、亡くなった方が使うものではありません。とすれば、やはり復活したときに使用することを考えて(当然石器を作れない子供や赤ん坊として生まれてくるから)持たせたのでしょう。

 自分たちが敬愛するムラのリーダーや家族が亡くなった時、残されたものたちが再び自分達の元に戻って来ることを願って、このムラに生まれて来た記憶がまだ残るであろう年少者のカタチを導き手に変えて、ともに連れて行かせたとは考えられないでしょうか。海峡北岸の縄文人は、生きているこの世とそうではない世界の区別があり、行き来が出来るという死生観をもっていたからこそ残された習慣の結果がこの足形付土版といえそうです。この世のものではないものと共に生きてきた日本人の死生観が、この時代から育まれていたといえるのではないでしょうか。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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