函館発のトレンド物語

戸井貝塚 浜町A遺跡 青竜刀形石器
撮影:小川忠博
写真提供:市立函館博物館

資料名 青竜刀形石器 せいりゅうとうがたせっき
見つかった遺跡函館市浜町 戸井貝塚 といかいづか 浜町A遺跡はまちょういせき
大きさ約32~50㌢ 柄 太さ約5㌢
時期縄文時代中期末~後期初頭(今から4500~4000年前)

市立函館博物館蔵 函館市指定有形文化財

函館発のトレンド物語

 ヒトの動きや情報の流れは、時に物の流れに反映します。同じ時代、遠く離れた地域の遺跡から発見された遺物を見比べていくと、思わぬ気付きや発見があったりします。

 筆者が(せい)(りゅう)刀形(とうがた)石器(せっき)を初めて目にしたのは多分昭和55年、盛岡市松園(まつぞの)にオープンしたばかりの岩手県立博物館でした。展示されていたものは(え)が長く平滑(へいかつ)、力強くシンプルなもので、軽米町(かるまいちょう)(かます)屋敷(やしき)遺跡から出土したものだったと記憶しています。王侯貴族の持ち物のような気品のあるシルエットは、まるでアーサー王と円卓の騎士に登場する名剣エクスカリバーのように見えました。争いや階級が無かったとされる縄文社会に突然登場した争いのシンボルに、「良くわからないが、ただならぬ気配がある」というのが第一印象でしょうか。当時は北海道と北東北に広がる円筒土器文化圏(えんとうどきぶんかけん)と東北南部に広がる大木式(だいぎしき)土器(どき)文化圏(ぶんかけん)が接触する北上川(きたかみがわ)馬淵(まべち)(がわ)分水嶺(ぶんすいれい)周辺の遺跡を探っていて、これが「謎を解く鍵になる遺物!」と勝手に確信しておりました。しかし、本州では簡単にお目にかかれる資料ではなかったのです。

 青竜刀形石器と再会したのは戸井貝塚と浜町A遺跡の資料です。ともに津軽海峡から200㍍足らずの(くま)(べつ)(がわ)河口に面した遺跡です。川を挟んで向き合うこの二つの遺跡は、一つの集団が時期によって行き来して住み分けたり、使い分けていたと考えられる集落です。この二つのムラ(村)からは、破損品やつくりかけも含むと80本を越える青竜刀形石器が発見されました。

 改めて本州方面と比較してみましょう。青竜刀形石器は北陸・東北・北海道の中期後葉から後期初頭にかけての遺跡から出土します。縄文時代を踏まえて言うと、3つの文化圏を越えた地域から出土する遺物で、北緯40度以北、特に南茅部地区と戸井地区の函館周辺に多く分布しているといえます。道内でも、石狩低地帯の北側からはほとんど発見されることがありません。そして、分布の中心となる円筒土器文化圏の外から発見されているものは数もごく限られ、とても丁寧で念入りにつくられた精製(せいせい)品が流通しています。さらに(こわ)されるという本来の目的も果たされていません。まさに貴重な宝物扱いでしょうか。

 石器には()刃部(じんぶ)の区別があります。刃部(じんぶ)(うち)反りで、同じ時期に中国で使われていた青竜刀に形が似ていることから「青竜刀形石器」と名がつきました。

 青竜刀形石器は戸井貝塚、浜町A遺跡や垣ノ島遺跡からは製作途中のものや大量の未成品(みせいひん)破損品(はそんひん)が出土しています。このことは、この地域が青竜刀形石器の製作や儀式の中心地であった事を裏付けているように思われます。この石器は一面に女性性器を()した表現があることから、豊穣や出産・再生を願った儀式に使われたといわれています。また、鮭が沢山とれる川の周辺遺跡から発見されるので、捕獲した鮭の頭をたたいて大人しくさせる「鮭たたき棒」と想像する研究者もいました。

 文化圏を越えたトレンド。壊される土偶が北海道では壊されず、壊すために作られた青竜刀形石器が本州では壊されずに伝わる。まるで交易のプロデユーサーが存在するかのようです。筆者はなぜか青函連絡船で活躍した担ぎ屋の女性たちを思い浮かべてしまいます。

 (日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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