
資料名 | ヒスイ珠 |
見つかった遺跡 | 函館市中野町・ 石倉町貝塚 |
大きさ | 長さ1.8㌢から2.8㌢ |
時期 | 縄文時代 後期初頭 今から約4000年前 |
函館市教育委員会蔵
マル・サンカク・シカク 縄文の子供たち
副葬品とは、亡くなった遺体を埋葬する際に、共に墓穴に埋納し、故人に持たせておくる品のことです。その人にゆかりのあるものや周囲の誰もが認める追悼追慕の品、別な世界や生まれ変わったときに使ってもらうためのものなどがおくられます。追慕の歴史は古く、ネアンデルタール人が遺体に花を手向けていた事例が知られていますよね。副葬された品は集団が認めたその方のモノとみることができます。
今日ご紹介する資料はその副葬品です。縄文時代の副葬品は早期の早い段階から認められます。土器や石鏃、編み物用のオモリなど様々なものがあり、中期の末葉頃から亊例は増えて行きます。その現象は、社会が豊かになるにつれて、さまざまな「モノ」が集団の所有から個人で所有することが認められる社会に変わってきたことを意味します。
発見されたヒスイは3点です。すべての形が違います。最も小さな珠1は1.8×1.2㌢の直方体で貫通孔が1箇所あるほか、高さを変えて対面方向に貫通しない孔が2箇所あけられています。透明感は弱いのですが翠の色をしています。写真中央の珠2はミカンの房のような「じょうのう」の形。あるいは三日月形とでも呼んだら伝わるでしょうか。珠1と石質が似ていて、緑と白の結晶が複雑に入り込んでいることから、ともに転石を加工したものと見られます。紐とおしの孔は、珠1の貫通していない孔の底に、削られていない飛び出しがあることから、管状の錐を使って穿孔されているとみられます。
この中では最も大きな「珠3」は長径2.8㌢、楕円形でほぼ中央に表と裏の両側から孔があけられています。大珠のミニチュアでしょうか。紐とおしの孔の断面は鼓状です。先の細くなる円錐状の棒錐で孔を開けたと判断できます。お墓の中では貫通孔を上にして、珠3を中心に右と左に分かれて出土しました。袋に入れられて胸に置かれたり、紐をとおして身に付けたまま埋葬されていたというよりは、傍らにそえられていたような状況です。色はしろ。透明感のある白色です。
ちなみにですが、副葬された3つの小玉をよくご覧下さい。三つの珠は、マルとサンカクとシカクでした。子供用とか?偶然でしょうか。それとも私たちは彼らから何か挑まれているのでしょうか。気付くことしか出来ませんが。
ヒスイは全国的に出土するのですが、流通量が少なく手に入りにくいため、高い価値が認められる「威信財」とよばれます。函館ではこれまで合わせて37個のヒスイが出土しています。海峡北岸のよその地域よりはヒスイが集まりやすかったといえますが、それにしても相当の対価、あるいは相当の見かえりが返ってくる魅力的な土地だったのだろうと思われます。
珠を身に付けていたのは墓の主です。墓の大きさと、墓が作られていた場所から、主は子供と考えられます。骨が残っていないので判断はできませんが、小さな身体の内に埋葬されました。乳児や幼児が成人する前に病に憑かれるのは致し方なかったにしても、痛みなどで気を失いそうになった時に、魂が身体から遠くへ飛び去ってしまうと元の身体に戻りにくくなってしまったり、近くにいる別なモノの魂が子供の身体に入ってしまうと考えた大人たちが拠代となるヒスイを身に付けさせたのでしょう。「威信」とは元来、集団や大人のものです。子供が身につけるということは、石の持つ依り代としての役目を重視したのでしょう。もちろん、ヒスイの珠を付けさせたということは、子供がとても大切な存在だったということのあらわれだったのでしょうね。加えて、亡くなった後も副葬してもたせました。これは珠が子供の所有物として認められていたということを意味します。
この子の墓があるのは遺跡の中心部ではありません。ストーンサークルとなる墓を囲む盛土遺構から津軽海峡に向かって40mほど南へ延びる縄文時代の道の両側に配された子供の墓の一つです。ムラの構成員の墓は盛土遺構の内側にあります。その外にある墓は、構成員になれなかった子供たちの墓でした。
この道の両側には15基の子供のお墓が発見されました。ヒスイの玉が副葬された土坑は列の中ほどにあり、墓穴の底の部分に張り付くようにして発見されました。
お墓には立石があり、中にやって来る人は必ず子供の墓の前を通って進むことになります。お墓の名前はPA-3639。埋葬されてから数度(数年)にわたってお参り(追葬)され、目当て石(墓標)や土饅頭が直されています。集団の構成員となれなかった子供たちに誰でもおまいりできたり、赤ちゃんに恵まれていない人が訪れて、その子の魂魄を連れて帰れるように配慮したのかもしれません。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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