
画像提供:大船渡市立博物館

資料名 | 土 偶 |
見つかった遺跡 | 伝 大船渡市 末崎 町細 浦 上ノ山 貝塚 |
大きさ | 高さ 約10㌢ |
時期 | 縄文時代中~後期(今から4000年前) |
大船渡市立博物館蔵
縄文の教えの物語
美味しそうに見えますがクッキーやお土産ではありません。今日ご紹介する土偶は、大船渡市立博物館に展示されている土偶。とても不思議な姿。博物館のマスコットで名前は「チィちゃん」。筆者が子供の頃、TVの中のアメリカ人の子供がよくやっていたシーツをかぶった分かりやすいオバケによく似ています。高さは約10㌢、大人の手のひらの大きさといって良いでしょう。全体はふくれる直前の四角い切り餅のようです。頭が幅広で四隅は丸く、おデコがふくらんでいます。プロポーションは3頭身。ズドンとした胴体の3分の1ぐらいから、短い腕がニョキっと出て、胴体の下には対角線上に短い脚が伸びています。顔は頭の真ん中に寄せられ、裏までぬけた丸い孔で背腹両方の目と口がつけられています。これはすごい発想ではないでしょうか。函館の日吉遺跡から出土した双顔土偶に匹敵します。分類というものを試みるのですが「板状」というには厚みのある中実※1土偶です。土偶というからにはヒトを模したものという前提ではあるのですが、カモメ眉と繋がった鼻もなく、自立することもできません※2。海の彼方から年に1度やって来るマレビト「スネカ」※3の姿にヒントがあるのでしょうか。
注目したのは土偶の身体の正面につけられた文様。狩猟文土器を思わせる2本1組の弓のような弧を描く盛り上がった隆線が両方の肩から身体の中心のおへそにむかいそれぞれの脚に別れてつけられています。さらに丸い突き刺し文様がその隆線にそって付けられ、間を埋めるように口から身体の中心にも丸い突き刺しの文様がつけられています。この身体に沿った円形の刺突文様で飾られる例は、函館の土偶にもみられます。後期初頭の戸井貝塚の角偶と同じですね。同じ技術は同じ時期の産物である可能性があります。角偶を見た人が真似たか、チイちゃんを見たヒトがこちらで試してみたか。どちらにしてもそれなら嬉しい。
背面ですが、目と口が表から貫通し、正面と同様の顔があります。当然のことながらリバーシブルで、しかもジェンダーレスです。
身体の左右についた短い手足はそれぞれがバラバラで、「トコトコ」と歩きだしそうにも見えます。同じ時期のどの土偶とも違う強い個性の持ち主です。この時期にここ貝塚先進地帯の縄文人は、具象ではなく抽象的な姿のものを受け入れていたことに感心させられます。
この土偶を紹介するきっかけは、2011年3月11日に起きた東日本大震災です。沢山の人と街が大きな被害を受けました。私はその1年後に大船渡市の支援に函館市から派遣され2年間復興のお手伝いをさせていただきました。大船渡では、津波で流されてしまった住まいやお店、工場、消防署や交番などの公共施設を再建する際に、その地下に眠っている文化財を粛々と記録保存するという仕事でした。
支援に行って学んだことがありました。それは、『縄文時代のムラは津波の到達する所には営まれない』ということです。縄文時代には文字がありません。縄文人は「口伝」という方法で1万年以上津波の危険を伝え続け、被害を防いだと考えられます。現在三陸の海岸には、「ココカラ シタニ イエ タテルナ」という道端に立つ津波記念碑や警鐘碑が危険を教えてくれます。現代に生きる私たちは経済を優先するあまり、昔からの教えを知りつつも尊い人命や家財を失いました。現代人と縄文人、次の世代の未来を創造できる本当に賢いのは一体どちらなのでしょうね。
チイちゃんは背中にも顔があり後ろを見ることが出来ます。海水が引いて魚を拾っていても何かをしていても津波が来たらすぐに逃げることが出来ます。いち早く逃げることの出来るチイちゃんはこの町ならではの発想や存在なのかもしれません。
今日ご紹介した土偶は、大船渡市立博物館に常設展示されています。念のため、お問い合わせの上、足を運んでみてはいかがでしょうか。大船渡市立博物館は国の名勝碁石海岸の隣、土偶が見つかった上ノ山貝塚はその通り道にあります。生まれ変わった大船渡市は、未来のために先人の知恵をふまえ、津波の来ない土地へ街を移しました。私たちにその勇気はあるでしょうか。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
※2 支えが無くても立っていられる土偶のこと
※3 大船渡市三陸町吉浜に伝わる国指定重要無形民俗文化財。怠け者を戒める来訪神
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