
資料名 | 土偶頭部 |
見つかった遺跡 | 松前町 上川 遺跡 |
大きさ | 縦9.9㌢×横12.7㌢×4.5㌢ |
時期 | 縄文時代晩期(今から2500年前) |
土 の 中 から現れた顔
「花咲爺さん」という昔話をご存知でしょうか。とある爺さんが飼い犬のポチ君に教えられ、裏の畑から大判小判を掘り出して、思いがけず臨時収入があったという。それをねたましく思った隣の爺さんがポチ君を借り出して連れまわし、やっと「ワンワン」教えてもらって掘ったら、出てきたのは器のかけらや石ばかり。腹を立てた隣のお爺さんは、ポチ君を殺してしまいました・・・とさ。うむ・・・
『この時に花咲爺さんが掘ったのは、大判・小判が出てきたから「江戸時代の遺跡」。隣の爺さんが掘り当てたのは土器のかけらや石器がみつかったのだから「縄文時代の遺跡」なんだよ』と教えてくれたのは大学の講師をしていたゼミの大先輩でした。
はなはだ僭越ではあるのですが戌年の筆者思うに、ワンコは自分の飼い主といつもの時間にいつものコースを見回って、それが楽しい。このお話を作った方は多分お金持ちになりたかったのでしょうね。それはともかく、佐藤が隣の爺さんなら警察に届けて博物館か骨董屋さん呼びます。昭和50年、畑で土偶を発見した故小板アエさんが地元の教育委員会に届けてくださったので函館に国宝ができました。今賑わいをみせている世界遺産のきっかけは、このときに始まったのでしょうね。
昭和34年(1959)5月9日の北海道新聞「こだま」のコーナーに、『松風町のたたみ職人何某の親戚にあたる松前町上川の住宅の畑から、とてつもなく大きな顔だけの土偶がみつかり市立博物館に寄贈された』との記事がありました。今回の土偶が博物館に入った経緯です。
土偶の特徴から、約2,500年前の縄文時代晩期の中頃のものとわかります。土偶は4頭身から5頭身のものが多く、首から下は見つかっていませんが、このセオリーに当てはまれば北海道にある土偶として、いや日本にある土偶の中でも最大級の大きさになりそうです。さらに、一去年松前町で開催された企画展で里帰り展示していただいた際に、松前町の学芸員さんが土偶を病院のCTにかけて観察し、中が完全に中実※の土偶ということがわかりました。道理でとても重量があります。
さあ、観察してみましょう。土偶の顔は、張りのあるおでこに飛び出すように盛り上がった眉がつけられています。いかめしい眉は縄文人の特徴で、眉には縄目がつけられ、剛毛でいかにも大自然の中で命を張って生きてきた強さが見えるようです。眉から伸びる鼻は短いのですが、全体が左曲がりで筋が立ち、鼻の左右には射抜くような目がついています。わずかに開いた口は、鼻の下を強く伸ばしておどけた表情にみえますが、全体的には「異形の相」といえるでしょう。頬の両脇にある耳には孔があけられ、紐スレの痕が残っていました。土偶も耳飾りを付け下げていたんですね。顔のお肌はスベスベです。髪にはこの時期の土器につけられる文様ににせて、頭の上に2箇所、頬のわきに2箇所のおダンゴに結っています。髪の付け根をルーペで見ると、所々に鮮やかな赤い色が残っていました。縄文の頃には真っ赤な髪をしていたのでしょう。縄文人を侮ってはいけません。2500年前から茶髪人生。首から下はわかりませんが、頭部に傷がないのは意図的なものを感じます。タトウくらいは入っていたのでしょうか。今風ですね。
土偶が発見された周辺は、現在上川遺跡として登録され、2019年に弘前大学によって発掘されました。目的は、青森県五所川原市五月女萢遺跡から発見された土饅頭のある墓※の広がりを確かめるためのもので、果たしてそのとおり、縄文時代晩期のお墓が発見されました。土偶の上川クンはお墓への副葬品だった可能性が出てきました。
この時期の土偶の中には、著保内野遺跡から出土した国宝土偶のように全身が見つかることがあります。それは札幌市のN36遺跡や江別市の大麻3遺跡から出土した土偶のように、お墓への副葬品として埋葬された場合です。あの世への案内と、この世に戻る導き手として。上川クンの頭部に傷がないのはそのためでしょう。
こんな派手な茶髪の土偶の顔を見たら、昔話の隣の爺さんはポチ君に当り散らさず、きっとお殿様に届け出たに違いありません。年金と税金の話はさておき、お下げ渡しになったあと、お宝を独り占めした花咲爺さんに売りつけて、みんなで分け前を頂戴するというのはいかがでしょうか。私なら遺跡を探してくれるポチ君のほうが欲しいなあ。
(日本考古学協会 佐藤智雄)
土偶
」、塊
のまま作られたものは「中実
土偶
」とよんで区別します。
※函館市石倉貝塚の土
饅頭
のある縄文時代のお墓です。石倉貝塚は縄文後期、黄色い土が土饅頭のあとです。その上には丸い小石と追葬
の際に供えられた土器が見えます。
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