提供:市立函館博物館
撮影:小川忠博
函館の縄文を旅する物語 本日は浜町A遺跡から出土したヒスイ大珠をご紹介致します。
名称 | ヒスイ大珠 |
みつかった遺跡 | 函館市浜町 浜町A遺跡(旧戸井地区) |
時期 | 縄文時代中期(今から5000年前) |
大きさ | 6.2×6.4cm 厚さ3.5cm |
縄文人のお気に入り
ヒスイは、「日本人」が古来、最も好んだ貴石で、縄文時代から7世紀(古墳時代)まで盛んに利用されます。日本の硬玉の産地の代表は新潟県糸魚川市付近で、同市の長者原遺跡や上越市山屋敷遺跡では、大珠などの製品が製作され、交易品として日本中に運ばれたことが知られています。これら供給地の発掘調査によって、ヒスイ装身具の製作は、縄文時代前期から行われていたことがわかりました。以来、ヒスイ製品は盛んに作られるようになり、大珠とよばれる製品は北海道礼文島を北限に、東日本一帯に流通します。後期後半から晩期にかけては、勾玉などの小型品が好まれ、沖縄まで流通していました。
ヒスイ製品のうち「大珠」は穴を開けた胸飾りで、長さ5㎝以上のものを指し、一回り小さな3~5㎝のものを「珠」あるいは「小珠」、細長いものは「垂珠」と呼ばれます。
ヒスイ製品の所持や分布は、縄文時代の交易や社会を見る「ものさし」といわれ、地域の拠点的な集落から出土します。中期までの多くは廃棄された状態で出土しますが、後期にはお墓の中から出土するようになります。この現象は、ヒスイを個人が所有していたことを意味します。また、産地からの距離が離れるほど、希少性が高くなることを考えれば、ヒスイは単なるアクセサリーではなく、つけた人の立場をあらわす威信財(ステイタス シンボル)であったと言われます。
函館を含む海峡の北岸ももちろんこのヒスイ交易の範疇に入ります。函館でヒスイの製品が発見されるのは、前期の末葉で、最も古いのは高岱町(旧恵山町)日の浜遺跡の竪穴建物から出土した珠があります。糸魚川でヒスイ製品の製作と流通が始まるのとほぼ同時に入ってきていることから、日の浜遺跡が拠点的なムラであったことが理解できるでしょう。
浜町A遺跡の大珠は、現場で「UP-28」とよばれた墓の底から発見されました。墓は上から見ると少しゆがんだ円形をしています。特徴は地表面に掘られた穴の大きさよりも底の径が大きく、穴の断面は三角フラスコの形をしていました。大きさは地表で1.4㍍、底は1.9㍍、深さは0.5㍍で、この遺跡でのこの時期の墓穴の特徴と言えるでしょう。穴の底には大珠、それを覆うように赤土が被せられ、その上には炭の細かな粒を含んだ黒土で覆われていました。当時の住いからは東に約30㍍離れた場所に、8基のお墓が円を描くようにまとまって造られています。
大珠は形状から根付形と呼ばれます。根付とは和服の帯に小物を留めて置くための道具で、代表的な形の一つがこの大珠のような形状をしていました。同じような形のものが青森の三内丸山遺跡で製作調製されていることから、同遺跡との交易で手に入れたのではないかといわれています。平面はほぼ円形、お彼岸にお寺に持って行く「餡ダンゴ」のような形です。ほぼ中央に紐とおしの孔が両側から開けられています。表側の孔の径は1.4㌢、裏側の孔は1.6㌢で中程には段があり断面はゆるい鼓状をしています。中程に段があることを考えれば、径の異なった先の細くなった円錐状の錐で、両側から孔が開けられていたということでしょう。また、表面と孔の中などには、焼かれた痕跡が見られることから、火を使った祭祀(※1)があったのではないかと考えられます。紐とおしの孔の表面角がほんの少しですが斜めに面取りされています。紐スレでここまで痕跡が残るほど柔らかな素材ではありませんので、孔開けの工程の後に表面を研磨したためではないかと思われます。紐とおしの孔の開け方や、研磨の順序などに三内丸山遺跡で製作調製されたものの特徴がみられると言えるのではないでしょうか。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
※2 土器の形や文様、使われていた時間の基準となる遺跡のこと。
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