縄文人の願いの深さの物語

函館空港第4地点遺跡 石剣
石倉貝塚 石刀
女名沢遺跡 石刀

資料名石剣・石刀
見つかった遺跡函館市中野町 函館空港第4地点遺跡・石倉貝塚
庵原町 女名沢遺跡
大きさ約25㌢からおおよそ55㌢
時期前期中葉(5500年前)・後期初頭(4000年前)・晩期(2500年前)

市立函館博物館・函館市教育委員会蔵

縄文人の願いの深さの物語

 石剣・石刀は粘板岩(ねんばんがん)片岩(へんがん)等の堅く緻密な岩石を素材に作られます。側面や先端を刃状(やいばじょう)に研ぎ出した製品を石剣、身が柄と刃部に分かれ、片刃で直線あるいは内湾する刃部を持つものを石刀と呼んでいます。石剣はおおむね前期中葉と晩期、石刀は形状や文様から晩期の遺跡から出土するものとされていましたが、函館では後期初頭の遺跡からも石刀が多量に発見されています。だとすれば、この遺物はこの土地で消失と復活を千年単位で繰り返している遺物という事になります。

 前期中葉の石剣は、円筒土器とともに現れました。円筒土器文化は植物質食料の利用が背景にあります。生活は大きく変わったでしょう。石剣はそんな変革期にかかわる資料ということができます。石剣・石刀は北海道内や北東北の遺跡から出土するのですが、函館を含む津軽海峡の北岸域は出土量が多く、多用されていた傾向が見てとれるのではないでしょうか。石刀に限って言えば中期の終わり頃に散見される程度で、北海道内では晩期の遺跡から出土する例や晩期に製作されたものと判断されたものがほとんどでした。

 観察してみましょう。前期中葉の石剣は、おおむね円筒下層a・b式期に出土します。特徴は、薄く直線的で長軸の両端が細く研ぎ出され、端に孔が開けられたり、縦に周回する線を刻んだりしています。石刀が盛んに作られるようになるのは後期の初頭で、素材にも厚みが出て、まるで金属器を見てきたかのようにより立体的となります。柄が意識され、端には握りが作り出されます。精製品と粗製品の区別があるのか、丁寧なものは刃部が内反りに仕立てられ、棟と刃が容易に区別できます。後期後半から晩期にかけては、亀ヶ岡文化圏で再び石剣の出土量が増えることが知られています。後晩期になると、柄頭に美しい入組文様がレリーフ状に刻まれるほか、直線的で断面が円形の剣状となるものも見られるようになります。

 石刀の共通点は、折られて発見されるということです。二度と使えないように強い力で刃か背を打ちつけて壊します。その行為から、願いと引き換えにする供儀となることが最終目的だったと考えられます。捧げモノですね。前期のものは半分に折られ、後期以降のものはそれ以上に細かく折られる傾向があり、接合するものはごくわずかです。捧げた証拠として破片の持ち帰りにも意味があったのかも知れません。

 石刀の中には、火であぶられた後に破却されるものがみられます。供儀の対象を火であぶる行為は、再生を願う儀式の一つといわれています。集団墓地だった石倉貝塚からの出土品は、副葬品として墓から出土するものはなく、追葬品として供えられ、お墓の埋め土や墓の周辺から出土するものが多く、死者への供養と再生(生まれ変わり)を願った行為と取ることができるでしょう。北海道内の環状土籬の中にあるお墓には、直接石剣や石棒を副葬する行為が見られます。石倉貝塚のような後期初頭の石剣のあり方は、その初現的な行為にあたるかも知れません。また、供儀としてより価値を高めるために、晩期の一部の石刀の柄頭には美しいシンボル的なモチーフを彫り込んだものが見られます。

 彼らは何を祈って石刀を作ったのでしょう。生活のスタイルや遺跡のカタチが変わるほどの変革期に祈って捧げた石刀。残念ながらその答えはまだ土の中に埋まっています。

注釈
※供儀(くぎ)捧げものの事。
※環状土籬(かんじょうどり) 北海道央や道東の後期中・後葉にみられる集団墓地。円形に盛土を回し、その中に墓が営まれる。墓は同じ方向を向き長大で華麗な石剣や石棒が副葬される。千歳市のキウス環状土籬は世界遺産の構成資産。

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