
資料名 | 獣面付円筒上層e式土器 |
見つかった遺跡 | 函館市浜町 浜町A遺跡 |
大きさ | 口径36㌢×高さ42㌢ |
時期 | 縄文時代中期後葉 今から約4500年前 |
市立函館博物館蔵
トトロの付いた土器 森の精霊の物語
「百聞は一見にしかず」一目見ていただければ今日のお話はおしまいです。面白い土器なので。でも、少しだけご説明をいたしましょう。
土器は、縄文時代の遺跡から一番たくさん見つかる遺物です。土器は一等最初、煮炊きの道具、つまりおナベとして作られました。粘土を熱して行くと、やがて堅く焼き締まって水を通しにくい性質に変わり、そのまま安定します。そんなことから「人類が物質の化学変化を利用した最初の産物が土器」なんていわれたりします。すごいですね。まあ、当の縄文人はそんなことチョッとも意識せずに使っていたかとは思うのですが。
津軽海峡沿岸の最も古い土器は、今から約16,500年前の大平山本遺跡(青森県外ヶ浜町)で発見されています。土器の優れたところは、食材を煮込めること。食材を煮込むと、素材の大概は食べられるようになります。軟骨や小さな骨も。鳥やウサギなどの小さな獲物でも食べられる箇所がそれなりの量になりますし、あたためなおすと暑い季節でも食べ伸ばしが可能となります。土器のお陰でたくさんの人がより少ない食料(獲物)でも生き延びることが出来るようになりました。これは革命ですね。
土器は、やがてドングリやトチの実など植物質の食料を貯蔵するための器としても応用されて行ったことが、土器の大きさや形の変化から想像することができます。さらに、今から4,000年ほど前の縄文後期には人を埋葬するための「甕棺」や、儀式で使うお酒などの大切な液体を保管したり入れたりする器や、注ぎ口をつけた「注口土器」、「単孔土器」、植物の種(穀霊)を入れるための「壷形土器」、祖霊に感謝を捧げる流麗な模様の器など様々なものが登場します。土器の形や文様には、その当時の文化や社会を如実に反映する一面があります。
資料を観察して見ましょう。この土器の口の縁に付けられているのは「獣面」といいます。ぐるぐるとらせん状に巻き上げられた2つの突起は耳、その下には丸い目、わずかに飛び出した鼻とネコのようなヒゲ。三面六臂の阿修羅のように土器の周囲4か所に顔を持っています。宮崎駿監督が原作・映画化した「となりのトトロ」に登場する「森の主」にとても良く似ています。映画の物語では、トトロは縄文時代前期からクスノキの穴の中に住んでいる生き物という設定でした。こんな土器が見つかったのは偶然なのかもしれませんが、北海道の森にはこんな顔の精霊や生き物がいたのかもしれないと思ってしまいます。この土器は、土に埋まって森に戻ろうとするムラの大型竪穴の最後のくぼみからまとまって発見されました。復元してみると、土器は両手を広げたように口の部分が大きく広がり、首の部分がややすぼまって、底に近い部分までふくらんだプロポーションをしています。これは、同時期に作られている大木式土器の影響です。器面の全体には地文に縄文がビッシリつけられて、口に近い部分には2本1組の線が連続して波か網の目が連続するような文様として描かれています。口の縁は厚く、太いロープのように飾られているのは、この土器が丁寧に作られた証拠。これらの要素を持っているのは、縄文中期の後半頃に作られた地元の土器の特徴だとわかります。
展示室で、この土器に気付いた方が「あ!ムササビが飛んでる」と仰いました。これは大変、「いえいえお客様、北海道にモモンガはおりますが、ムササビは住んでおりません」。
この時の調査対象区からは竪穴が39棟、土坑55基が発見されています。前期、中期初頭、中期後半まで連続して営まれたそれぞれの竪穴は、時代ごとに比較的まとまって建てられているのですが、この竪穴だけがどのグループからも少し離れた所に1棟だけ建てられていました。多分特別な扱いなのでしょう。土器が発見されたこの竪穴は長径9㍍、深さ1.6㍍。火事の跡も無く、突然埋められてもいない。廃棄された後も、大きな窪みを利用して共同で土器を焼いたりしてしばらく使われていた様子がみえます。どうやらこの竪穴はムラの共同作業場だったようです。誰でもみんなで使える。そしてトトロの土器を作って埋めた人達は、埋まりかけた竪穴の東側に数棟がまとまってムラを営み、埋まりかけた竪穴の周囲にお墓を作っています。
この状況を整理すると、「先代が作って使っていた竪穴の窪みを、その後の人たちが利用して土器を焼き、平地(ひらち)に近くなったあたりで獣面のついた土器でお祀りをして、その後にお墓が作られていった」という物語が浮かびます。現代風に申し上げれば「地目の用途変更」のための手続きが森の神様へ行われたということでしょうか。みんなが知っている共同の場所を別目的で使うために必要だったことなのかも知れませんね。
縄文人は植物質食料に頼るようになると森を管理するため、森の近くにムラを移してゆきます。森を切り開き、家族や集団のために地面を掘って目的に合った大きさの竪穴を造る事は簡単ではないでしょう。建物の部材を手配することだって計算が必要です。どこに生えている木が使えるか、切りやすいか、運びやすいか、手は足りるのか、今切ってもいいのか。生業の片手間では出来ません。竪穴の深さ1.6㍍は当時の男性の身の丈程で、安心のできる冬でも暖かくて深い竪穴は、十分な人数と経済力の裏付けがなければ構築することはかないません。それほど大切な場所だったのでしょう。
竪穴が役目を終えると屋根をほぐされ、使える柱を抜かれて解放されます。竪穴の窪みは再利用され、そしてこの土地には別な役割が与えられることになりました。紹介した土器が何を表したのかを特定することは出来ませんが、一度森に帰し、そして後に新たな目的で利用するために必要だった感謝の行為だったのでしょう。となれば、土器のモチーフは彼らの考え得る森や自然神の象徴を現したものではないのでしょうか。
皆さんは新しい墓穴を掘る際に、土地の神に許しをもらうためコインを捧げる行為があることをご存知だろうか。筆者の経験では、年寄りが確か「バイセン」とよんでいた記憶があります。コインを使うのは神から何かを買い取るのではなく「コインが神と人との間を行き来できるものだから、それを使って願いを伝えたり聞き届けたりしてもらう」というふうに教わりました。時間の離れた二つの現象ですが、筆者には何となくつながって見えてしまいます。
大地はヒトのものではなく、使うには持ち主の承諾が要ります。この土器はその感謝と誠意と願いを現したものでしょう。埋める行為が行われたのは自然に帰すための手続き。その後墓地として使ったのであれば、集団が参加したセレモニーだったのではないかと思われます。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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