縄文人の知恵

石倉貝塚  キノコ形土製品
土器棺墓

資料名キノコ形土製品
見つかった遺跡函館市中野町・石倉町 石倉貝塚
大きさカサの径 約5㌢×高さ4㌢
時期縄文時代後期初頭 今から約4000年前

函館市教育委員会蔵

縄文人の知恵

 「佐藤さんキノコ!」作業員さんが呼んでます。前日までの雨で、気の早いやつが現場に生えたのかと思いました。別の作業員さんが「先生、キノコだってば!」。「ば」がつきました。この函館弁を現場流に翻訳すると「早く見に来い」という意味になります。「ハイハイ」。驚きました。そこにはキノコが埋まっているではありませんか。満面笑顔の作業員さんは「ほーらネ」と自慢げです。どうやらヒトという生き物は、土の中から掘り出したものを自分の手柄にしたい生き物らしい。何もないはずの土の中から掘り出した獲物。まぁ発掘調査の醍醐味ですよね。

 触ってみるとキノコは、土で作られて焼かれています。カサの天井の部分は黒く、シイタケにそっくりです。場所からすると、縄文人が作って墓前に捧げたものでしょう。

 キノコが発見された石倉貝塚は、今から4000年前、縄文時代後期初頭に作られた集団墓地です。この遺跡の特徴は、一番外側を「盛土」で囲い、墓地の内と外を丸く結界した区画墓。遺跡の中に入ってくる外からの道があり、盛土の内側には様々な種類のお墓が作られ、土抗に建てられた配石でストーンサークルが形成されています。キノコが発見されたのはサークルの中心から北側に位置するお墓の上で、隣には幼児を埋葬したと見られる小さな土器棺墓が発見されました。

 キノコ形土製品は今から約4,000年前の沿海州から北海道南部、さらには東北南部の福島県あたりまで分布していることが知られています。北海道内では鷲ノ木遺跡や石倉貝塚などの集団墓地から発見され、秋田でも大湯環状列石や北秋田市の伊勢堂岱遺跡など非日常的な空間から発見される例が多く報告されています。見つかる時代はほぼ一緒、かなりの広範囲で一時期に突然現れるのはキノコらしくもあるのですが、当時の情報の伝達の早さとのその背景にあるヒトの動きに驚きます。

 一体何があったのでしょうか。

 まず、一体何のためのものでしょう。しかもキノコ。捧げられた人は、生前キノコ捕りの名人だったとか。それともキノコで亡くなったとか。キノコは人を森に誘い夢中にさせてしまいます。青森県立郷土館ではシーズンになると、ロビーに毎日当番制で学芸員が立つて、県民が持ち込んだ怪しげなキノコの「食べられるのか、食べられないのか」の質問に答えるのが恒例と伺ったことがあります。毒があるとか無いとかではありません、「食べられるかどうか」が問題なのです。ものすごい「キノコ愛」です。自然と共生していた縄文人だって当然食べていたでしょう。秋になるとアケビやブドウ蔓で編んだポシェットを持って、そわそわしながら森へ入って行った縄文人たち。教えてくれるのは年かさの人で、ムラに帰ってくるとゴミを取りながら年寄りがさらに見分けます。キノコをきちんと採ってくることが一人前の大人の証拠。それゆえこのキノコ形の土製品は、食用可能なキノコを覚えるための見本と言われることもあります。

 しかしながら、よその土地から来た人には大変な仕事だったでしょうね。本州と北海度では同じキノコでも呼び名もちがいます。キノコは可愛い。キノコは旨い。その陰では沢山の人が犠牲になったのでしょう。あるいは沢山取れるように墓前でお祈りをしたのかもしれません。写真や文字の無い時代、子供や若い人たちに伝えるのは、口伝と絵と模型しかありません。一つ間違えば命に関わります。ちなみにキノコを採りに山の中へ入ることを「狩り」とか「採り」といいますよね。「きのこ狩り」。命をかけた縄文からの狩りの伝統かもしれません。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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