土偶胴部1
土偶胴部2
土偶胴部3
| 資料名 | 土偶胴部 |
| 見つかった遺跡 | 函館市庵原町 女名沢遺跡 |
| 大きさ | 高さ6.7㌢ |
| 時期 | 縄文時代晩期(今から約2,500年前) |
市立函館博物館蔵
出ベソの神様たち
がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。今日ご紹介するのは胴部だけの土偶です。でも、土偶は壊れて発見されることがほとんどで、そんな状況から「壊されるために作られたというのが土偶のあり方の一つ」と言われたこともありました。研究者の中には、土偶をレントゲンやCTで撮影し「わざと壊れやすく作ってあった」と指摘される方もいらっしゃいます。本当でしょうか。筆者は少し懐疑的です。
この遺跡の土偶にも、頭部だけ、左右別々の手足だけ、胴だけ、上半身と下半身で折られたものなど様々な壊され方のバリエーションが見えました。その数は22点。無論例外はあって、女名沢遺跡の中で接合するものもみつけたのですが、一般的には壊された土偶が接合する例はほとんどありません。これには「持ち帰りの習慣」が深く関わっているといわれています。持ち帰りの習慣とは、複数の人がなにごとかのシルシとして1つの土偶を分けて持ち帰るというものです。もちろん行為や話し合いの結論は伝えられるのでしょうし、その後に習慣に則って、然るべき場所に納められると想像して、それならばと可能性を信じ、どこかに接合する資料がないものかと市内の他の遺跡から見つかった土偶の分類と接合を試みてはいるのですが、「よそのムラから出てきたものと接合した」という事例も今のところ聞いたことがありません。不思議ですね。土偶が接合しない現状からそんな理由が出たのかもしれません。
今日の土偶をご覧になった方は「これが土偶か?」と思われるかもしれません。でも土偶です。一部ですが。胴から上はポッキリと折れています。これを折るには手間がかかったことでしょう。乳房も、乳首もありません。脚の取れた痕が2箇所ありました。逆にいうと2本の脚があったということです。カラダの表側正面には正中線とおぼしきものが刻まれています。正中線の先には、見事な「ヘソ」がありました。「出ベソ」です。しかも上を向いているじゃありませんか。子供時分に川遊びをしていたら、いとことその弟君が出ベソ!まわりにいくらでもいましたよね。ヘソは自分で気になるものではありません。相手を観察すると気がつくものです。目線は当然上からでしょう。聞くところによると、妊娠した女性のヘソは出ることはないそうです。ということは、この土偶が女性ではないのでしょうね。
腰には下帯風の腰ヒモと前に垂れた布が表現されています。衣装とすれば「褌」ですよね。腰紐は一直線。しっかり腰に結ばれています。越中スタイルなので前の垂れ布部分には縄文がつけられて使用感が出ています(実際フンドシはこういう風にこなれてきます)。
土偶の1点は胴の残存する部分に漆で対角に線がひかれていますがその正体はわかりません。写実的な表現と解釈すれば、三内丸山遺跡で見つかったようなバッグを提げた様子が描かれていたのかも知れません。「日本人は出ベソが多い」と聞いたのは昭和40~50年代までだったでしょうか。大人になるとヘソはほぼ引っ込んでしまいます。つまり、この土偶はきっと子供の姿を写していたのではないかと思われます。「土偶は子供の姿を表現している」とは手前ミソな予見ですが、そんな要素も沢山あって、すべてではないにしろ実際に土偶の一面を言い当てているそんな気がします。それとも雷様避けのお守りだったのでしょうか?母と子をつないだ大切なヘソ。そんなヘソが礼拝の対象になっていたのかもしれません。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
函館の縄文を旅する物語

コメントを残す