函館に世界遺産がある理由(わけ)

クナシリ-エトロフ-シリサワヘ土器
箱館上(神)山村の土器
当別村氏神祠の土偶
資料名蝦夷嶋奇観(えぞしまきかん)
所蔵函館市中央図書館蔵
時期江戸後期 巻子本

函館に世界遺産がある理由(わけ)

函館から発見された縄文時代の器物を最も早く紹介したのは、江戸時代の幕吏(ばくり)(徳川幕府のお役人)秦樟(はた あわき)(まる)村上島之丞(むらかみしまのじょう))で、寛政(かんせい)10(1800)年に蝦夷地の地理や風俗・産物を紹介した「蝦夷(えぞ)(しま)()(かん)」に掲載されています。この中には、シリサワベ(現函館市谷地頭)の土器や当別(とうべつ)(北斗市)の祠で発見された土偶を始め、日本人やアイヌ民族が働いていたエトロー(択捉島)漁場での土器・石器など箱館や開拓の手が入った蝦夷地で発見された縄文時代の遺物や見つかった場所、その伝え聞きがエキゾチックな絵とともに紹介されています。箱館という土地から「先人たちの使った不思議なものが土の中から現れる」という情報は北前船に乗って、当時の教養人や好事家、幕末に日本にやってくる外国人にも知られることになります。秦がアイヌの古老に器物の由来を尋ねたところ、「これはもっと古い時代の人たちが使ったもの。自分らは使わない」というやり取りも載せられています。

明治のはじめ、日本の先住民族について考古学的な見地から意見を述べている外国人がいます。一人目はトーマス・(ライト)・ブラキストン、二人目はジョン・ミルン、三人目はエドワード・S(シルベスタ)・モースです。彼らは明治11年、函館山の周辺(現函館公園)で遺跡や貝塚の調査を行っています。東京大学で教鞭をとったモースはその前年の明治10年に、日本近代考古学のあけぼのとされる大森貝塚の調査を行っていました。大森貝塚の発見は、「汽車の中からの偶然の発見」といわれていますが、開港場函館での調査は、ブラキストンの情報や知見に基づいたもので、函館に到着してすぐに遺跡に案内されていることから、遺跡の調査のための来函だったと考えられます。大森貝塚の発掘調査の翌年に行われた函館の調査によって、函館の縄文遺跡が黎明期の研究者の耳目を集めることとなります。

この時の調査は、地質学者だったジョン・ミルンによりイギリスのアジア協会誌で報告されました。函館の縄文遺跡は、日本の中でも早くから注目され、調査の対象となった遺跡であるという事ができるのです。

イギリス人のトーマス・ライト・ブラキストンは幕末の文久3年に来日し、開港場函館でアイヌ民族や石器時代の遺跡の案内をしていたことは意外に知られていません。ミルンやモースが函館で貝塚の発掘ができたのも、後に考古学者のヒッチコックが函館で収集品を見ることができたのも、ブラキストンの案内とアドバイスがあったからだと言われています。

ブラキストンは写真の谷地頭で発見した縄文前期の長大な石斧を開拓使に寄贈します。その石斧は後に市の文化財となって、現在市立函館博物館に所蔵されています。

函館には世界遺産に登録された構成資産が2遺跡あります。「なぜ」とその理由を問われるなら答えは3つ、1つ目は江戸時代から名が知られるほどの大きな遺跡や豊富な遺物が見つかる土地だったこと、2つめは開港場で遺跡のある土地や遺物の情報がオープンだったこと、3つ目は他地域に先んじて考古学の調査が行われ市民がふれることができた土地だったことが上げられるでしょう。

さらにこの土地に来れば、期待に答えるだけの遺物が出土する遺跡が、函館の町の近くにあったという地理的な背景があったことも見逃せません。明治40年代頃の記録には函館を訪れた外国人の間で、帰国土産に石器や土器を求めたことが流行だったということも残っています。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄) 

注釈
※本紙に掲載した写真はすべて函館市中央図書館の所蔵です。

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