
資料名 | 土偶 |
見つかった遺跡 | 函館市湯川寺野 |
大きさ | 高さ4.9㌢×幅2.8㌢×厚さ1.5㌢ |
時代 | 縄文時代 晩期 今から約2500年前 |
市立函館博物館蔵
縄文のちいさなヒトの物語 1
この土偶を一目見て「あ、コボシだ」と思いました。頭部は欠け、腕も欠けています。クルリと返すと背中には「昭和七年五月七日湯川 寺野」と朱書きされていました。大きな字ではありませんが小さな土偶の背中にとっては一杯です。欠けた頭部と腕の割れ口の風化は古く、身体中のいたるところに当たり傷が残されています。畑の中にでもいたんでしょうきっと。
「起き上がりコボシ」というものをご存知でしょうか?福島県会津若松に伝わるハリコの郷土玩具で、倒れても、倒されても起き上がってくるという縁起物です。筆者は東日本大震災の復興支援で岩手県の大船渡市に派遣して頂いたのですが、一日の仕事が終わって、住まいの復興住宅に戻り、何かの番組で取上げられていたのを見たのでしょうね。休日に会津若松まで車を走らせて3体、我が家にも分けて頂いてきました。コボシは赤と青と黄色の三種類で、大小あって、分けていただいた小さなコボシは指の関節一本分の大きさです。指の関節一本分の長さって不思議なことにどんな大きさの大人でもあまり違いがありません。長さにすると3センチ、日本では「一寸」と表現されます。この国には「一寸法師」というお伽話もありました。我が家に来た一寸法師。この土偶はコボシと同じ大きさでした。
縄文時代の遺物は一見してばらばらな大きさをしています。でも、まことに不思議なことに一定の範囲におさまりそうなものも沢山あります。そういえば学生時代、わが恩師は「佐藤君、日本人の長さの基準は身体尺。その基本は「指」「手」「腕」ですよ」と教えてくれたことを思い出しました。遺跡から出土して、復元・図化した土器の外形を全て1枚の用紙に描き写して重ね、ほとんど全てが微妙に違っている現実に、満足したのか頭を抱えたのか、忘れてしまいました。それにしても、土器や土製品など縄文時代の様々なものは、この身体尺を基準に作られていると考えると、とてもわかりやすくなります。もちろん現代の規格品とは異なり、「大体」という注釈がつくのですが。
「寺野」とは現在の地名では湯の川2丁目の「坂の上公園」付近のかつての名称です。函館の考古学・人類学者馬場脩の著述にありました。縄文時代前期の海進期には海岸に面する高台にあたります。
土偶はごく小さな中実の土偶です。頭部と左腕は失われ、腰から下には不釣合いなほど太い足が伸びています。重心の低さとがっしりした下半身は、製作者が「立つ土偶」をイメージして作ったのかも知れないと思わせます。肩から腰に広がるラインは皮でできた貫頭の衣(ワンピース)でしょうか、胸の部分がふくらみ、裾縁は大きくひろがっています。腰から下にはズボンでしょう。時代を現す特徴が少なく、頭部はありませんが、どんな表情をしていたのか気になります。
土偶は大きさから言えば2寸、古事記に登場する「スクナヒコ」と同じ位の大きさです。一帯からは石製のボタン状装飾品が出土しています。径は1.5㌢の円形で、断面は丸いナベ底状。おナベの底には二つの貫通孔があります。縄文晩期の女名沢遺跡、同時期の日の浜遺跡から類例品が発見されています。寺野の現地調査はしておりませんが、この土偶も晩期の遺物と見て間違いはなさそうです。
そう言えば、「コボシは家族の人数より1体多く求めるのだ」とお店のご主人に聞きました。「その1体が厄災を一身に受け止めてくれるから」とのことでした。その場で聞いていた時にはなんと表現したら良いのか言葉に表せない気持ちになりました。「現代の私たちが土偶の役割の一つとして期待している答えが返ってきたからなのだ」と後になって気がついた次第です。
土偶は厄災から家族を守って願いをかなえてくれたから壊されて、役目を終えたのかもしれません。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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