エゾシカの里の縄文人

角偶正面
提供市立函館博物館
撮影:小川忠博

資料名角偶かくぐう
見つかった遺跡函館市浜町 戸井貝塚といかいづか 出土
大きさ高さ5.5㌢
時代縄文時代中期末葉から後期初頭 (今から約3500年前)

市立函館博物館蔵 函館市指定有形文化財

エゾシカの里の縄文人

 本日は津軽海峡に面したムラで作られた(かく)(ぐう)をご紹介致します。縄文人は様々な素材でヒトのカタチを表現します。土で作ったヒトガタは土偶、石を擦ったり磨いて作ったヒトガタは(がん)(ぐう)、石を打ち欠いて作ったヒトガタは(せき)(ぐう)異形(いぎょう)石器(せっき)、角や骨で作られたものは(かく)(ぐう)(こつ)(ぐう)と呼ばれます。

 縄文時代のヒトガタは土偶が早く、草創期の後半から出現したことが知られています。はじめは逆三角形状の単純な形で全身を表現しますが、それに乳房や頭部、やがて腕や足の表現が加えられるようになります。土偶は、素材の加工が容易なことから、さまざまな地域のこだわりの形や文様が取り入れられて自在な表現を見せますが、それ以外のヒトガタは堅さや割れ方など素材の特長によって、ヒト本来のシンプルな特徴が表現されました。

 函館市戸井貝塚から角偶が出土しています。貝層を剥ぎ取る際に貝層の壁面中上部から横になった状態で発見されました。角偶は全国でも出土例は10例に満たず、かなり希少な資料といえるでしょう。中にはかんざしや針の先端に加工されているものも多く、ヒトガタそのものを表現した例はきわめて稀です。と、まあこんなことではあるのですが、実のところ当時、北海道立の博物館(当時は記念館)が展示リニューアルの目玉資料として戸井貝塚の貝層の剥ぎ取りをしていった後でした。あまりの手際の良さと綺麗な成果に調査担当の古屋敷さんと薬品のあまりを使って即「リベンジ」しました。同郷の二人は負けず嫌いで考えることはほぼ同じです。その勢いに引っ張られてポロリと現れたのが「角偶」でした。担当者の運の強さです。よくぞ残ってくれました。

 角偶は、径がかなり太い鹿角の叉状部分を利用して作られたとみたてられました。表面はかなり滑らかに仕上げられていますが、外形を削り出すために背面を削り込んでいて背側に海綿質は全く残っていません。エゾシカの鹿角は個体差があって一概には言えないのですが、断面は楕円か不定円形となるのが通例です。外側のカーブから推察すると、相当な太さの素材を利用していると考えられました。

 ヒトガタとしての表現方法は、岩偶と同様に逆三角状の胴部の上に頭部を作り出し、肩にパット状の膨らみを持たせて腕や足を削り出しています。頭部の中央には貫通する孔があけられ、体の線や腕・足に沿って貫通しない孔を縦方向に連続させて装飾が施されています。同時期の八雲町コタン温泉の出土品にも同様の装飾が見られることから、この時期特有の装飾方法なのでしょう。下腹部の2か所の孔は性器とヘソを表現したものとも言われますが果たしてどうでしょうか。手足の指は最後に刻まれています。使い方としては、頭部の貫通孔にさげ紐の擦れた跡が見られることから、護符やペンダントのように身につけていたものと思われます。

 素材となったエゾシカは、貝層の分析から、戸井貝塚の中でも最も重要な食糧として認識されていたことがわかります。貝層の中からは海獣類とともに1シーズンにかなりの数のエゾシカが発見されています。時代は異なりますが幕末、函館にいた絵師平沢屏山のアイヌ風俗十二ヶ月屏風の二月には、イヌと共に藪の消えた雪原でエゾシカを追うアイヌ民族の姿が描かれています。縄文なら冬季の雪を利用した罠猟でしょうか。採れた肉はそのまま干せばフリーズドライとなります。北海道の優位性は冬にあります。戸井貝塚の角偶はエゾシカの里を象徴するような出土品。鹿の強さと美しさのシンボル鹿角にあこがれた縄文人の姿が浮かんできます。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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