ふるさとは最北の島

上段:貝製平玉 中段:貝製ブレスレッド 下段:貝製腕輪・メノウ製ドリル
埋葬された乳児と副葬された貝製平玉

資料名貝製平玉・貝製装飾品・石錐
見つかった遺跡礼文町大字船泊村字ウヱンナイホ 船泊遺跡
大きさ貝製平玉 0.8㌢×0.7㌢m ~1.8㌢×1.7㌢ 
貝製垂飾 2.2㌢×1.7㌢×0.3㌢m
貝製腕輪 5.9㌢×4.7㌢×0.3㌢
時期縄文時代後期前葉から中葉(今から約3,800~3,500年前)

市立函館博物館蔵 

ふるさとは 最北 さいはて の島

 今日ご紹介する資料は礼文島船泊遺跡(発掘当時は船泊第4地点)から発見されました。船泊遺跡は礼文島北部の船泊湾と久種湖に挟まれた砂丘上に営まれた集落跡です。日本の国土としては最北部にある縄文の集落です。明治時代からその存在を知られていたこの遺跡は、戦後北海道大学医学部解剖学教室によって、初めて組織的な調査が行われ医学的、人類学的、考古学的見地からの成果と発見された遺物は北海道の縄文後期研究に欠かせない情報と資料になりました。この時に発掘された資料の一部が函館博物館に残っています。

 このムラが注目される理由の一つが、今日取り上げるビノスガイを加工した製品を作っていたことです。このムラで作られたと見られる製品が道南や胆振など道内各地から発見されています。素材となった貝は自然界を代表する美しさを持っています。特に巻貝の持つ美しさは秀逸で、渦を巻いて成長する比率は黄金比とも呼ばれて自然の持つ美しさの象徴といえます。また堅牢で姿が変わりにくいタカラガイなどの特定の種類は加工されて、人々の間で交換の対象として流通し、貨幣の元になります。貨幣の「貨」という字には「貝」の文字が入っていますよね。二枚貝もベンケイガイやビノスガイなどは、装飾品となって交易の対象となりました。具体的には東日本の縄文人は早期から、沖縄などの列島南方の地域は旧石器時代から貝製の装飾品や貝器(貝殻を材料とした道具)を利用していることが知られています。

 この村で作られていたのは直径1.8㌢ほどの丸い平玉の中央に穴をあけて連ねた「ネックレス」と直径0.8㌢、厚さ0.7㌢の素材に0.3㌢ほどの穴をあけた管玉を紐で連ねて二重三重に巻きつけて「ブレスレッドやアンクレッド」です。他に方形や菱形に仕立てたブレスレッドのプレートなども見えます。

 ビノスガイは硬いのですが、強い力を加えると不規則に壊れやすく、加工には独特の道具が必要でした。加えて、大型で肉厚の素材を手に入れることを想定すると、量産できたのはこのムラに伝わった技術があったからなのでしょう。加工しにくい肉厚の素材に孔をあけ、紐をとおして大量に連ねる装飾品は華麗で圧巻、手に入りにくく付加価値も生まれたことでしょう。

 玉は、まず貝の周辺を打ち欠き、円を作って周囲を丁寧に石で磨きます。その厚くて硬いビノスガイになるべくプレッシャーをかけず、穴をあけられる道具。平玉や管玉と共にたくさん発見されているものがありました。船泊の住人が目をつけたのはメノウ製のドリルでした。

 メノウは石器としても加工がとても難しい素材です。黒曜石や頁岩のように均質ではなく、石の(割れ)目もどちらに入っているのかわかりません。ドリルの軸(シャフト)は直径1㍉強、長さは5㌢を越えるものもあります。このドリルこそが欠かせない道具でした。

 厚さ2~3㍉の貝に5㌢を越えるドリル。これは何を意味するのでしょうか。重ねて穴をあけるのか。答えは見つかっていません。「失われた技術、現代の私たちが忘れ去ってしまったもの」ですね。長い時間をかけ 素材を探し、加工する技術を探る。だから礼文島の平玉が広まったのでしょう。唯一無二の存在。今、私たちが探るべきものの1つがここにあります。

 この遺跡、函館の発掘野郎どもと少なからず関わりがあります。今を去ること30数年前、国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授が船泊遺跡の調査に入ることになり「手伝いに来ないか」とお誘いを頂きました。こんな有名な遺跡を見るチャンスはめったにありません。佐藤が誘い、その当時、隣町の学芸員含め、身近にいた5人で函館から出かけたのでした。一人は測量の、一人は貝層の、一人は見つかった土器のそして佐藤は、お墓を発掘させてもらいました。

 今日載せていただいた写真はその時のものです。

 小さな小さなお墓でした。土饅頭もなく目当て石もない。貝製平玉の端っこがほんのわずか顔を出していただけですが、「これは墓だろう」と直感しました。静かに掘り下げていくと頭骨が現れてきました。生まれて数ヶ月の乳児でしょうか、頭頂部の縫合線にまだ癒着がみられません。身体の大きさも30㌢をわずかに超える程度です。横向きで、首には大人の首に巻かれる平玉のネックレスが身体の上と下を三重にかけられていました。おそらく母親のものでしょう。墓も道具で掘られたものではありませんでした。「砂地を手でそっと掘りくぼめた」程度のものといって良いでしょう。他のお墓と比べ、しっかりした痕跡として残されてはいませんでした。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

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