資料名 | 土偶 |
見つかった遺跡 | 函館市日吉町 日吉町A遺跡 |
大きさ | 長さ5.5㌢×4.7㌢×1.4㌢ |
時期 | 縄文時代 後期 今から約3500年前 |
市立函館博物館蔵
彼らが土偶を作るわけ
この土偶には頭部がありません。肩から先の腕と足もなくなっています。割れ口はいずれも古いもの。お腹がポッコリとふくらんでいて、土偶を見た人には赤ちゃんがいる状態だということが簡単に想像できるでしょう。手のひらほどの小さな土偶ではありますが、胸には張りのある乳房、下腹部は脚にむかってゆるやかにふくらんでいます。腰にはお腹をまわる二重の線が見え、脚には縄文がつけられて、まるでズボンでも履いているようです。背中には何の表現もありませんが、全身がなめらかでていねいにつくられていることがわかります。
乳房とお腹のふくらみは身体を作った後の貼り付けです。乳房のまわりには貼りつけてから形を整えた跡が残ります。お腹のふくらみには小石や混ぜ物の多い別な土で作られ、やはり貼り付けられた後に形を整えています。ふくらんだお腹の下にはアスファルトとみられる黒い線がふくらみにそって残されています。衣装のようなものかケズリカケのようなものが貼り付けられていたのでしょうか。
土偶には壊されてバラバラにされるもの、壊されながらもまとめておかれるもの、壊されずにそのまま残されるものなどがありますが、大半は壊れた状態で見つかります。壊され方も様々ですが、最後はお墓に副葬されたり、埋葬の後の盛土に入れられたり、竪穴の中から出てきたり、包含層や盛土、貝塚からも見つかることもあります。これは土偶が壊される理由も、土偶のお祀りの仕方も地域や場合によって、それぞれやり方があって、決して一様な取り扱い方がされていなかったということを示しています。
足と頭がとられているのは現代の私たちにとって残酷なように見えますが、この姿の中にヒントや回答が隠されていると考えて、読み解いていきましょう。
縄文に文字はありません。共通の言語があったとはいわれていますが、具体的なものは何一つわかりません。その中ではモノが伝える効果が当然大きかったといえるでしょう。具体的に土偶から伝わる要素です。もう一つ、土偶は動きます。ギフトになったり、約束の証拠に作ったり。土偶であれば相手に手渡して示すことができる手段にもなりうるということでしょう。
「伝える」ということに関していうと、例えば筆者の田舎には今でも「お使い」といわれるものが残っています。古くからのやり方です。冠婚葬祭の日時や共同作業の内容を「人を頼んで」ふれてまわります。多くは若者で、言い間違いや勘違いを防ぐために2人1組で1軒々々たずねては直接口上を述べます。訪問された側は出迎えて口上を伺います。「使いが来た」「使いが来ない」こんなことで相手と自分の関係や社会的な立場までが明らかになってしまいます。田舎とはいえ現代ですから案内状は別に出しますし、回覧板やメールだってあります。しかし「お使い」は別に出されるのです。アナログな話ですが、縄文時代こそお使いのようなものが全てでしょう。「お使い」は、必要があればかなり遠くまで「ふれ」に行ったのではないでしょうか。
お腹の膨らんだ土偶は、届けられた先に女性の妊娠や出産を知らせたり示したりする「たより」になります。使いの若い男性にとって話しにくい話題でも、スッと差し出した土偶がすべてを語ります。青森のお舅さんならば無言で「エジコ」※1を編む支度をするでしょう。
ヒトガタが果たす役割はさまざまに想定されます。時代によっても地域によっても。現代だってひな人形や博多人形、他の人形にしても、人形がギフトとして贈られるのは、込めた思いを相手に伝える、思いが伝わる、そんな背景もあるからでしょう。この土偶を解釈する手がかりは報告書の記述と土偶自身の持つ要素、壊れているということは、第三者がいた可能性がとても高いと考えられます。
土偶は女性を写したものが多いといわれるのは、背景にこういった人の誕生にかかわることがあるからかもしれません。そう解釈すると、身体しか残されていないこの土偶はとても大切な情報を伝える手段で、それであれば丁寧に作られた理由も理解できるのではないでしょうか。様式化された土偶ではとても伝えきれないでしょうからね。
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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