
資料名 | 椴法華式尖底土器 |
見つかった遺跡 | 函館市 椴法華出土(旧椴法華村) |
大きさ | 高さ16㌢ 口径17㌢ |
時期 | 縄文時代前期初頭 今から6500年前 |
市立函館博物館蔵 北海道指定有形文化財
北海道を背負った土器
小さな土器です。大人の手のひらならば、両の掌にすっぽりと入ってしまうのではないかと思うくらい。博物館の第一展示室、一番初めの展示ケースに入っていても、さほど目をひきません。私たちが何も言わずにみていると、ほとんどのみなさんが通り過ぎてゆきます。何か工夫は出来ないものか。縄文時代前期初頭のこの土器は、火炎土器のような派手さは持ち合わせてはいませんが、とても綺麗な文様とシルエットを持っています。器の表面に残された波状の文様は、発見された椴法華の銚子海岸に打ち寄せる波を思わせます。和装の着物で言えば、最盛期の江戸小紋、大人の「粋」とか「婀娜」という言葉が似合います。
この土器は昭和10年、椴法華で発見され、昭和13年に発行された『日本文化史大系第1巻』※1で日本中に広く紹介されました。ほとんど欠けがなく、器に施された流麗な文様から、土中から出たものとしては異例ですが、ラスコーやアルタミラ洞窟の絵画のように美術品(後に原始美術という用語が使われます)として専門家の評価を受けた数少ない資料の一つです。
昭和39年8月28日付けの新聞に『道内ただ1つ函館博物館から』という見出しで記事が掲載されました。『東京オリンピック開催期間中、上野の国立博物館で開かれる“オリンピック日本美術展”に函館博物所蔵の椴法華式尖底土器が出品される。同展は日本の国宝・重要文化財としての美術品を広く国内外の人に見せるのが目的。今度出品される土器は同博物館に寄贈されている能登川コレクション1万千点のうちの1つで、33年になくなった能登川隆さんが玉谷勝さんとともに,昭和十年椴法華村で発掘したもの。-中略- 縄文の文様が美術的に見ても非常に美しい。』(原文ママ)
この、小さな土の中から現れた焼き物は、第二次世界大戦後の日本の復興を世界に発信する事業に、北海道から唯一出品された資料として展示され、日本を代表する国宝・重文などとともに国内外の観覧者に供された、いわば北海道の文化を背負ったことのある土器なのです。
この土器は、五稜郭に打ち込まれた幕末の砲弾の先端のようにゆるやかなカーブを描く尖底(底がとがっていること)を持っています。土器は本来煮炊きの道具で、底が尖っていたほうが、平らな土器よりも火の回りや熱効率もよく、尖底は調理を重視した早い時期の土器に多用されます。土器上端の口縁は、ごくゆるやかに上下しています。口縁の波の頭は4つ、ほぼ向かい合うように配置されます。波打つ形は底からのカーブと相まって全体が幾何学的な線で構成されていることがわかります。器の形の割合は口縁を1とすると高さおよそ1.13、わずかに縦長ですが、尖った底からの“ふくらみ按配”にたまらなく惹かれます。器の表面に付けられているのは、「押し引き沈線」とよばれます。竹を割ったような半円形の工具で、線を引きながら短い間隔で前に「クッ」と刺して、まるで縄文がつけられたように見せる技法です。文様は大きく「底」と「胴」、そして「口径」の3つに分けてつけられているのですが、肝心なのは、口縁の波の形が胴にも巡らされていることです。口縁の緩やかな波の形を、水面に重なる波紋のようにとらえ、二次元の絵画というよりも三次元の彫刻のように表現しています。
早期と前期では、土器への文様の付け方にも変化が見られます。それは、二次元的に描かれた早期の文様と、三次元的な意職で作られる前期以降の文様の違いなのですが、根本的には土器の持つ役割の変化や縄文人の土器への意職の違いが反映しているのでしょう。この時代、竪穴の形が突然四角く変化したり、加えて炉が屋内に作られたりします。この変わりようは、異民族が入り込んだのかと思える程の変化です。その背景には、堅果類などの植物質食料の登場があるのではないかと推察されます。
シンプルで優美な早期の美しさに、転換期の世界観と地味派手な文様が描かれた北海道南部の前期初頭を代表する土器です。沢山の土器の中では目立たなくなってしまうのですが、改めて、この土器だけを高々と掲げて皆様にお目にかけてみたいものです
(日本考古学協会会員 佐藤智雄)
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