シカが描かれた土器の物語

シカ絵画土器
  図化した絵画土器                              絵画部分  
  
資料名絵画土器
見つかった遺跡函館市町 中野なかの 石倉 いしくら 町 石倉貝塚
大きさ高さ9.6㌢×幅7.4㌢
時期縄文時代 後期初頭 今から約4000年前

函館市教育委員会蔵

シカが描かれた土器の物語

 縄文時代の絵をご覧になったことはありますか。縄文時代の絵とわかる例はきわめて稀ですよね。文字のない時代、旧石器時代の洞窟絵画の例もあって、縄文人だって画を描いていたであろうことは想像できますし、縄文人が描く絵といえるものがあってもおかしくはない。頭では理解してはいたのですが、現物を目の当たりにした時「え?」と思ったのが筆者の答えでした。

 縄文時代の絵画と初めて出会ったのは戸井貝塚のミニチュア土器です。それは川などに仕掛けられた魚を獲るための「エリ漁」を描いたとみられるものでした。携わった遺跡に恵まれていたとはいえ、本物はなかなか見たり、手に取ったりすることはできません。幸運でした。

 「縄文人の描いた絵を見た」と周りに話すと、その人には「おれは幽霊を見て来た」とでも話しているように聞こえるらしく、大体の人にその驚きは伝わりません。毎日の遺物処理で家にも帰れず、眼を赤くして、ドーパミンが出まくっている脳の状態で、土器に描かれた本物にお目にかかると、「うぉー」という雄叫びとともに、無敵のヒーローにでもなった気がします。ほんの一瞬ですが。

 発掘現場の担当者というものは、気が休まりません。調査が始まると毎日々々一点ずつ、本当に1点ずつ発見された土器や石器を確かめてゆきます。発掘作業中に見つけられればいろいろな記録を残すこともできるのですが、大半は気づかれないまま取り上げられて、土を洗い落とす水洗い作業でみつかったり、そこでも気付かれずに次の接合作業中に見つかったり。発掘が大規模になり、流れ作業になってからは、担当者にとって「見逃しはないか」の大緊張で家に帰れない日々が続きます。

 調査で発掘される遺物は近年、数万・数十万点と圧倒的な数が見つかるようになりました。そんな中で縄文人の意職や感性を感じられる遺物を見つけ出すことはほぼ奇跡に近いといえるかもしれません。拓本で記録を残す資料を選び出す工程で見つかったこの絵画土器も、石倉貝塚から発掘された86万3千点の資料の中の1点でした。

 土器は外から遺跡の中に来ることもありますが ほとんどはムラの中での共同作業で作られるものといわれています。土を採ってきて、混ぜものをしてこねたり乾かしたり、火を使ったりと工程が多岐にわたるためです。一つのムラで作られる土器は、大きさや文様のつけ方に似たような癖や統一感がみとめられます。それは、個人の意思よりも集団としての完成度が要求されることが普通の社会だったということです。多少地域が広がっても同じ時期のムラでは同じような文様で同じような大きさの土器がつくられるといった具合です。そんな中で、自由に好きなモチーフを描くということは集団のルールに縛られない客人のような特殊な立場でもない限り許されないし考えもつかないでしょう。

 それでも津軽海峡の北岸では中期の終わり頃から後期初頭になると少しずつオリジナリティを持って文様を描く人があらわれてきます。同じ頃のお墓の中には「富と権力をあらわすもの(威信財)」といわれるヒスイの製品が副葬品として入ってくるようにもなりました。これは集団を第一に考えてきた縄文社会が個人の所有や感性が反映するように変化して来たことが考えられます。

 資料を観察してみましょう。土器の右端にシカが線で描かれています。一見乱雑な線ですが、描かれていると言うよりは線で刻まれていると言ったほうがよいかもしれません。

 前脚と後脚が胴体から伸び首と頭、角が多くの線で描かれているのは頭を振ったりして動いているからでしょうか。前脚と後脚もはっきりとは描かれていません。やはり動きを表現しようとしてこんな描き方になったのかもしれません。土器は後期初頭の十腰内Ⅰ式期のもので、本来は一本ずつの線で描く格子文様が描かれた土器でした。シカの絵は本体の模様の外に描かれています。

 エゾシカという動物は縄文時代の北海道でもっとも食べられた陸獣といえます。アイヌの人たちにとってシカは「カムイ」として敬う対象ではなく、神が食料としてアイヌに下さったものとして「ユク」(食べ物の意味)と呼ばれたそうです。絵画土器と土偶は根本的に違いますが、葬祭の場だった集団墓地に持ち込まれ、そして破却されるという運命をたどりました。葬られた死者に供えるシカ肉の容器だったりするのかもしれません。そこにもまた縄文人の感性が見え隠れします。遺跡から見つかった絵画土器は最終的には5点みつけました。復元されたものも3点あります。集団ではなく個人々々があつらえたものでしょう。面白いですよ、縄文個々人の感覚は。

 石倉貝塚の調査には230人の発掘作業員さんと整理作業さん、補助員さんが5年間にわたって協力して下さいました。この発見は彼ら彼女らのバックアップあってこそだったといえるのです。

(日本考古学協会会員 佐藤智雄)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です